月別アーカイブ: 2013年7月

コンベンション・チャレンジ会 a

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↑ 「京極常子」東京海上日動火災保険㈱山口支店長(7月1日より着任)

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↑ ㈱インシュアランスバンク 「新谷隆道」さん

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↑ 「瀧本和宏」さん ㈱あんしんネット山口:社長 

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↑ 右から 「中尾宏至」さん ㈱中尾保険サービス:社長  「阿部光昭」さん ㈱東海総合保険事務所 「米澤道雄」さん ㈱インシュアランスバンク:会長

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《独り言》本日~明日と、「コンベンション・チャレンジ会」の様子(スナップ)をお送りします。東京海上日動グループが開催する、山口支店内、代理店の「勉強会」並びに「キャンペーン」などの表彰式~懇親会であります(エントリー制)。ほとんどが「専業代理店」=プロ代理店 であり、自動車整備・販売(R/Sチャネル)などの「兼業代理店」は、弊社1店のみですね!会自体は、2002年度スタートですから、11年目に入ります。懐かしき?何と!(最初の頃のキャンペーンでは)初代~2代~3代そして5代の「チャンピオン」だったですねえ!但し、2002年~2005年頃の話ですが、、、

・発足当初は、生命保険(第一分野=終身保険~定期保険など、第三分野=医療保険~がん保険など)の挙績を競う集合体でした。弊社はプロ代理店の中に入って、今日まで頑張ってきました。現在では、「自動車保険」関連と「超保険」関連のキャンペーンなども行われるようになりました(これには、弊社は参加していません)。

・この「コンベンション・チャレンジ会」の名称は、参加代理店の投票によって決められました。東京海上日動あんしん生命㈱が発足し、(1996年10月発足当時は)専業~兼業の区別は無く、キャンペーンが展開しており、その全国入賞を『生保コンベンション』と呼ばれていました。この事実が名称の根底にあるのです。当時から、実に厳しい入賞基準でありました。

・「東京海上日動あんしん生命」の全国大会は、確か18年目に突入しています。ですから、第1回大会からの入賞代理店は、17年連続と言うことになります。地元、山口県からは、「G1プランニング」さん、1代理店のみですね。この会は、エントリー制ですが、代理店そのものに「やる気」=成績を挙げる意識  がないと、参加しても、すぐ落ちこぼれることになります。生命保険の部では、専業=AAP4000万、兼業=AAP2000万の絶対条件があります。ちなみに、AAP4000万は、新規契約件数で、毎年おおよそ240件から280件は必要になります。(AAPの説明は、複雑なので省きます。)

・エントリー代理店さんは、発足当初50数店(最近減少傾向にあり)35社前後ですね。(理由の一つは、代理店同士合併して、中核代理店化の傾向が起きた為です。一概には言えませんが、相対的に社員数が10名~20数名の規模の代理店になっております。経営的(経費や賃金など)皆さん、良くやられておられますね!所詮、保険代理店は手数料のみが収入源ですから、自賠責・自動車保険~火災保険などなど(一般種目と言う)もかなりの収入保険料が必要となり、何処の代理店さんも、経営は大変ではなかろうか?と推察しています。

・弊社の生損保体制、筆者と家内のミツエさん、そして「若社長」の3名で全てをこなしています。今後の展開は色々考えなくてはなりませんが、(筆者の考えとしては)まず内輪で固め、規模拡大は(それほど)念頭にはありません。まあ、独りが三人分の仕事をしさえすれば、間違いなくやれますね。これもある意味では戦いなんです。負ければ○○と○が待っているだけのこと!やるしかないのです。この規模と体制で、もう25年間全国入賞をしてきたのです。気持ちの問題と、アトは、目標達成意識があるかどうか?だけでしょうか!難しいようで、み易い、み易い様で難しい、この保険業界の仕事は、そんな感じでしょうね!

(下関支社:工藤忍主任) 『人生哲学』  其の三

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《独り言》(進学校である)下関西高校に(ギリギリで)合格、何とか面目が立ちました。田舎から出てきて、都会地?には、頭のいい人が沢山いるもんだなあ!というのが実感でした。入学して即座に実力テストがありました。これが何と、288人中280番、300点満点の45点?位だったと記憶しています。英語~数学~国語の3科目だった?と思いますが、丸暗記方式の受験勉強だったため、始めて見る(中学校ではやったことのない!)問題ばかりでした。ド田舎会長!挫折~屈折人生!第二章がスタートします。

・高校一年のときは、実に真面目な学生でした。分厚いかばんを提げて、純真無垢?な学生でありました。知らないものは恐ろしいもので、最初の目標大学は「京都大」なんですね!大爆笑 一年生の3学期、成績の最高位は99番でした。100番まで名前が張り出されるのです。その中での暗記科目??「生物」「世界史」「国語」だけは抜群、広島大は確実の成績でした。ある時、「幾何」の時間、先生が難しい問題を黒板に書きました。これを解答出来る人!手を上げて!誰も手を挙げませんでした。筆者は一呼吸おいて挙手、その難問を僅か5分で解き上げたわけです(解答した計算式は)黒板の上から下へ行って左から右へ、正面黒板の半分は使いました。結果100点であります。

・東京大を目指している、確か?H君でしたか、授業のあと筆者の傍に来て、どうして?解けたんか?教えてくれんか!(当時、筆者の成績は150番前後、彼は、毎回10番以内でありました。)種を明かしますと、その数日前たまたま、(全く同じ)練習問題をしていたのであります。それは、確か「横浜国立大学」の過去出題された問題(問題集から)だったのです。言わば、寸分違わない問題を、幾何の先生は、黒板に(そっくり)書いたのであります。大爆笑 まあ、こんな感じで「数学」「幾何」「物理」「化学」この辺り、(当時は)暗記で切磋琢磨していたわけです。

・高校2年生になって、クラス別けが行われました。筆者は1組、いわば文科系志望のクラス、おまけに「社会」の専攻が「世界史」と「人文地理」の二種目、早い話「日本史」が嫌いなグループなんですね。このあたりから読みが狂い、簡単(み易い)と思った「人文地理」で大変なことになってしまったのです。いわば、範囲が広いのと、新しい教科のため、過去の問題集などが無く、勉強の仕様がない!いわば「数学」「英語」と同じ能力が必要なのでありました。この頃から、既に挫折の始まり、「数学Ⅱ」「数学Ⅲ」「物理」「化学」これらは完全にパズルのような気がしてきたのです。全く判らなくなりました。それらの授業の時間は、別の勉強をしておりました(内職といいます)。自習は「英語」「世界史」「生物」「国語」「数学1」などなど。座席は後ろの方、10時頃には授業中!弁当(ハヤベン)を食べていました。弁当を食べ、内職をしない時は(起きているような格好?で)寝ておりました。これも爆笑

・とは言うものの、学校から帰ると(下宿)すぐ寝ておりました。(一応フトンに入る)夜の8時ころ、おもむろに起きて、近くの銭湯に行きました。それから、朝まで机の前、一応勉強していました。まあ、ガリ勉!そのもの、眠たくても蛍光灯だけはつけて(格好だけ)、うたた寝をしておりましたねえ。ほぼ、寝ずにそのまま学校へ、眠たいはずであります。それでも3年生では、目標は国立大学を目指していました。志望校のレベルが落ちていきました。早い話が、受けさせてもらえる大学がないのであります。当時(下関西は)、大学へは、ほとんど関東~関西へ(国立1期校は勿論)私立では「慶応義塾」「早稲田」「立教」「法政」「明治」、「同志社」「立命館」「関西学院」、まあ、全員が『井の中のかわず、大海を知らず!』全くの世間を知らず、無謀な挑戦を(みんな)しておりました。なおさら、九州~中国~四国方面の大学(市立も含めて)を受けるものは、少数派でありましたね。

・一応、「長崎大学 教育学部」「大分大学 経済学部」の受験許可はでました。これまた世間知らずの我々、長崎大学は32名受験して、合格したのは2名のみ!筆者、試験の初日、「数学」ほぼゼロ点(試験問題の意味すらわからず、ほぼ白紙でありました。)翌日の試験をボイコットして「平和公園」を独り散策して汽車に乗りました。これも大爆笑 2期校の大分大学は始めから受ける気もなく、田舎に帰りました。長崎大学受験の前日、既に「西南学院大学 商学部経済学科」を受験しておりました(一応の滑り止め)。下関西からは、過去入学者は数名のみ、その年の受験者は筆者とK君の二人のみでありました。この当時、「目標達成意識」は目覚めておらず、「継続は力なり」の文言すら知らない頃であります。

・ここで「人生哲学」でありますが、①世の中には頭の良い人が沢山居ることがはっきり判った②自分は理数系の頭ではないこと③自分は、勉強が好きではない!ことを自覚した④なぜ?勉強する必要があるのか?判らなくなった、言わば「国語」「社会」「英語」はまだしも、「数学Ⅱ~Ⅲ」「物理」「化学」は、勉強してなんの役に立つのか!全く判らなくなった時代であります。⑤遂に、何のために大学へ行くのか?疑問?自分の生きる方向が(全く)見えない年齢。そして、筆者の一番仲が良かった同級生、その名前は「ヤマダ タカシ」。高校卒業の数年後、彼は新聞の一面記事に(当時)想像すら出来ない面相で掲載されたのであります。(京都大~連合赤軍~殺人=加害者&被害者)この事件の精神的な影響は、果たして如何に?? 。