「矢野公皓」さんからのコメントです。
2018年8月28日~8月25日~8月12日
犬猿の仲の薩摩と長州が同盟を結んだがそこに至るまでには、かなりの葛藤があったと思います。薩英戦争、下関戦争で外国の力を知らされていた両藩には、国内問題で争っている次元ではなかっただろうし、他の思惑や利害関係が合致した結果でしょうが、見事な180度転換だと思います。会長のブログにも有ったように、侍は自分の殿や、よほどの上席でない限り、あれ程に頭を下げる事は無いと思います。まして藩を代表しているので、「藩のメンツ」もあり周辺が許さないと思います。
侍は日常の全ての所作において、方法が細かく定められていたようで、雨が降っても走らない、、、など外見を気にする、、と、父が良く言っていました。簡単なところで武士は食わねど高楊枝、、、、がありますが、腹が減っては戦ができぬ、、、と、、逆もあるのでよくわからない、、、云々 私達は歴史で結果がわかっているので 真実でもフィクションでも安心して見ることが出来ますが、当時 携わった方々はどんな心境だったでしょうか?(8月28日)
世良修蔵を扱った小説を見ると、著名作家の物も含め 何れも極悪人に描かれているようです。それも後年に発刊されたものほど悪人度が増しているように思えます。映像にしても同じで、数年前の大河ドラマ 「八重の桜」での登場場面は その極みで、目に余る表現だったと思います。最近は戦いの発端となった密書の 捏造説 も出ているようで、会長のブログにもあるように、埋葬禁止や生存「白虎隊士~飯沼貞吉」の長州での養育の事など日の目を見るのに、150年近くかかったことなど、歳月はかかりますが 真実が究明されることを望みます。(8月25日)
白虎隊唯一の生存者、「飯沼貞吉」少年が、山口県しかも会長の実家のすぐ近くで養育されていたとは驚きでした。それも130年以上表に出なかったそうで、お互いの苦労、心情がしのばれます。時間はあまりにも永くかかりましたが、この様な事実があった事も広く世に知られ、長州の良くないイメージを少しでも変えることができ、わだかまりを解くきっかけになればと思います。碑が建てられたこと、当主子孫「松平保久」氏や関係者の方々も来訪された事も感激しました。会長の再開のブログ、興味深く見ていますが、世良修蔵 飯沼貞吉 共に戊辰戦争に関わること、福島の法要に参列されたこと、実家の近くである事等、何かの縁かとも思われます。ブログ見るのが楽しみの一つに加わりました。でも以前のような無理は避けてください。(8月12日)
↑「矢野公皓」さんからのコメントです。