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四年前(2018年8月)のブログが面白い! その⑥

(会津白虎隊、生き残り少年隊士!) 
「飯沼貞吉」  『 恩愛の碑 』 について 2018年8月12日ぶん

戊辰戦争の最中、若き「白虎隊」20名が、飯盛山から「会津若松城」=鶴ヶ城 が燃えているとして自刃(集団自害)した話は有名ですが、その中に一人だけ生き残った(助けられた)隊士がいましたね。この隊士の語り告げられたことにより、その自害の全貌が明らかになったと言われています。(実際は「鶴ヶ城」は燃えておらず、城の傍の「日新館」や街並からの炎上の煙を勘違いしたものです)

筆者も(全く)存じませんでしたが、お隣の美祢市東厚保町の小杉地区に、「飯沼貞吉」少年隊士が2年間養育されいたことが発覚(20数年前頃)、永くに渡って「口伝」のみにて伝えられていたようです。(東北の地から連れ帰った長州藩士)→「楢崎頼三」子孫、養育に携わった「高見家」や生き残り隊士「飯沼貞吉」の子孫や関係者が一同に会して「恩愛の碑」の除幕式が行われたそうです。(平成28年年10月15日のこと)

(下関市豊田町と美祢市東厚保町の境界)僅か数キロしか離れていない、そして何度も「小杉」地区を走行してきた筆者にとっても(飯沼貞吉養育のこと)全く存じ上げなくて申し訳なく思っています。家内「ミツエ」さんの旧友「壱岐初枝」さんは(現在小月在住)、高見家の子孫になるそうで、「白虎隊の会下関支部」のメンバーであり、記念碑建立委員会の実行委員をされてたとか、、筆者地元、豊田町(中の川地区)から美祢市保々(ほうほう)地区、ここから東厚保方面に山越えをすると(約1キロ)「小杉」地区となります。(保々地区は、美祢市に編入前は、当時の豊浦郡豊田町(現在の下関市豊田町)でありました。何でも11対10の僅差で美祢市へ編入したとか?(余談)
なお、(冊子によりますと)平成30年3月4日 会津から松平家14代当主「松平保久」氏がこの地を来訪されています。

★「読売新聞」平成28年10月16日の記事 転載 ↓

戊辰ぼしん戦争で敗れ、自刃を図った白虎隊の唯一の生存者が引き取られたと言い伝えられる美祢市東厚保の小杉地区に、この伝承を記念する「恩愛の碑」が建てられた。除幕式が15日、地元で行われ、長州藩士や白虎隊士の子孫らが出席。過去の憎しみを乗り越え、未来に向かって手を携える尊さを訴えた。

 記念碑は県産の御影石で作られ、縦約1メートル60、横1メートル80の屏風びょうぶ形。歴史愛好家らでつくる「白虎隊の会下関支部」(下関市)と美祢市民で構成する実行委員会が寄付を募り、約450万円かけて建てた。

 同支部によると、白虎隊は1868年、長州藩などからなる新政府軍の攻撃を受け、敗走。一部が自刃を図ったが、飯沼貞吉(1854~1931年)が生き残った。小杉地区の庄屋だった高見家では、長州藩士の楢崎頼三(1845~75年)が飯沼を保護し、高見家に預けたと言い伝えられているという。

 飯沼の世話をしたとされる高見フサの子孫で、同支部長の吉井克也さん(69)が、この伝承について調査。2008年に飯沼の孫の一元さん(73)(東京)と知り合った。一元さんが記念碑の建立を提案し、吉井さんらの呼びかけで昨年5月、実行委が発足した。

 除幕式には、一元さんの兄弟や楢崎の子孫・松葉玲子さん(81)(東京)らも参加。飯沼や楢崎の名が刻まれた記念碑が披露された。傍らに設置された説明板には、助かった後も自刃を図った飯沼に対し、楢崎が「今からは日本人が心を一つにして、この国を強くて豊かな国にせんにゃいけんのじゃ」と諭した逸話が記されている。

 松葉さんは「楢崎が当時、危険を顧みず、見返りも求めずに貞吉を守った英断が今日につながった。石碑をきっかけに、二人の関係を知ってもらい、平和を考えるきっかけにしてほしい」とあいさつ。碑の近くでは、会津特産の「みしらず柿」と、萩の「夏みかん」の苗が植えられた。

 吉井さんは「恩讐おんしゅうを越えたつながりが実際にあったことを知ってもらう場になってほしい」、一元さんは「会津では今も山口県に対し、悪感情を抱く人がいる。記念碑は、過去の恨みをひきずらず、新たな関係を作るための礎となってほしい」と話した。(読売新聞より転載しました)↑

★詳しくは「飯沼貞吉」~「恩愛の碑」ネットで検索願います。なお、白虎隊自刃の時期には「世良修蔵」は、既に惨殺されています。それと「会津」攻めの指揮官は「板垣退助」(土佐藩)であります。参考まで、、

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◎ 急きょ コメント掲載します。(ド田舎会長 判断)

(昨日)後山邦秋さんから頂戴したコメントです。2022年9月10日 10:31 PM ぶん

 今夜は「中秋の名月」と「満月」が重なり、数十年に一度の素敵な夜空になりました。尺八の名曲には、月を題材にした曲が かずえきれないくらい有ります。「月草の夢」~「月の雫」~「月の沙漠」などなど、月と人間も密接な関係に有りますね。今夜のこの月を、信長や秀吉~家康も見ていたと思うと、悠久の時の流れの中で 生きているんだと実感します。会長と一緒に作り上げたライブの裏話など、コメントさせて頂こうと思っていたのですが、今夜の月を見ると何か新たなエネルギーを感じて、(現在)作曲に専念しています。今しか出来ない事を今やる!それが生きると言うことかも知れません。今感じたことをコメントさせて頂く、、と言うスタイルで取り組ませて頂きたいと思っています。

話しはガラリと変わりますが、会長の “演奏スタイル” は、ジャズの本場 米国「ニューオリンズ」の街角で、好きな曲~弾きたい曲を楽譜なしで、楽しそうに弾いてる黒人演奏者達を連想させます。勿論、音楽を本格的にやった事など無い人達ですから、楽譜は読めないだから楽譜は必要ない!でも聴く人の魂に語りかける。音は魂の言葉だと私は思います。「言霊」と言う言葉が有るように、「音魂」と言う言葉があってもいいんじゃ無いでしょうか?音楽はテクニックだけじゃない!音はその人そのもの、だからこそ、自身の内面世界を耕し磨かなければ感動して頂く事などあり得ません。ひたすら、精進有るのみです。