< マイビジネス・マイライフ  >

(業界広報誌の紹介記事より抜粋)=一部訂正:補記→2018年3月12 日  山口県下関市豊田町大字矢田114-4   ド田舎会長(伊藤涌ニ)ブログ  今日一日を大切にして常に前向きに。

・大学卒業後、下関市豊田町 父親が開業した自動車の整備販売会社である(有)西市自動車に入社。1991年、45歳にして3代目社長に就任。

専務取締役として、1987年から損害保険部門の強化に取り組む。「積立傷害保険」20年連続1億円という快挙を達成した。 pic_office ・・・1998年、生保販売歴15年のミツエ夫人が参画。収保を飛躍的に伸ばして、兼業部門の全国表彰制度である「フロンティア倶楽部」生保&生保長期第三分野において、現在18回入賞している。

2002年度から後継者である次男(孝之)も入社、現在、会社は総勢12名で、うち保険部門は3人、地域密着型代理店をめざす。2012年3月 社長を伊藤孝之に譲り、代表取締役会長に就く。 大学時代、アルバイトの自動車販売で営業に開眼した。大学卒業と同時に父親が開業した自動車の整備販売会社へ。(山口県下関市豊田町)社名(有)西市自動車

・下関市北東の山間部の町、下関市豊田町は2005年2月13日、旧豊浦郡から下関市へ合併した。下関市内から車で約50分、豊田町に入ると、緑の山並みとのどかな田園風景が広がり、町を流れる清流:木屋川では初夏にたくさんのホタルを見る事ができる。「ホタルの里」として知られる自然豊な豊田町に ㈲西市自動車 はある。

・豊田町はその昔、農業関連の市が立ち、「西ノ市」と呼ばれた。山口県内で「西市」といえば豊田町一帯をさし、社名はここに由来する。 伊藤涌二会長は1945年2月下関市(旧:豊浦郡)豊田町に生まれた。(県立)下関西高等学校を卒業後、福岡市早良区の西南学院大学経済学部に進学。大学2年の時から自動車販売店でアルバイトを始める。

・「最初は洗車や車内の清掃だったのが、(先輩から)『伊藤君をみていると、どうも営業に向いているようだ』と言われて、一緒にお客様のところへお伺いするようになり、営業の面白さに目覚めました。人には、『自分にはこの仕事が向いていると思う瞬間がある』と良く言われていますが、どうやら私にはその自動車販売店でのアルバイトの時期がそうだったようです。」

・ 整備工場に隣接するショ-ル-ム兼事務所を訪ねると、鴨居にズラリ並ぶ保険関係の表彰状やトロフィ-が目に飛び込んでくる。 「表彰状だけでも100枚以上はあって、私はこれを“表彰状のハチマキ”と呼んでいます。これを見ると、今回もキャンペ-ン頑張るぞ!という気持ちになるのです。

★伊藤涌二会長 現在73歳  (有)西市自動車は、材木商であった伊藤さんの父親が1964年に自動車整備販売業として開業。1987年から保険代理店として保険業務にも本格的に乗り出し、03年度収保は全種目計6億円を超えた。 当時、大学新卒の初任給が1万数千円の時代。伊藤涌二会長はアルバイトながら月間10台前後のセ-ルスを記録、(当時)月給が2万円を超えていたと言うから、その卓越した営業力が早くもうかがわれる。(現在の20万円)

・「大学在学中にアルバイトで貯めたお金が当時のお金で約80万円(現在の800万円?)ありました。これを元手にいずれ会社を興すつもりでしたが、卒業が決まると、父の『帰ってこい!』の一言で急に郷愁を覚え、帰ることを決めました。この父の一言で私の進路は決まったのです。」

・< 父親の不慮の事故死により、専務取締役に就任。損害保険部門の強化に取り組む。積立保険20年連続一億円突破の快挙を達成。>

「当初は、はっきり言って自動車整備販売のつけ足しみたいな感覚で損害保険をとらえていました。そんな処へ東京海上日動火災保険㈱の社員(K/O主任=当時)が何度も何度も訪ねてきて、『本格的に保険を取り組みませんか』と熱心に口説かれました。訪問が13回を超えた時から当時のS/S課長の訪問も受け、『伊藤さんなら絶対にお客様の信頼を保険販売にいかすことが出来ます。収保年間5億円は硬い!』と言われるので、私もその気になり、ひとつ本腰を入れてやってみようかと思ったのです。

・その身振り手振りをまじえた口調は論旨明快にして歯切れが良く、ユ-モアたっぷりである。話題はときに社会のトップニュ-スから、江戸期は長州藩のお膝元だっただけに吉田松陰(先生)や明治維新(戊辰戦争)におよぶ。何よりもご自身の強いバイタリティもあって、「伊藤さんと話しをしていると、元気と勇気をもらえる」と誰もが口をそろえる。 下関支社のM支社長(当時)は、「伊藤さんはエネルギッシュで即断即決、物事の勘どころを素早くつかみ、仕事もスピ-ディーで効率の良さは見事というほかありません。昔風に言うなら、まさにコンピューター付きブルト-ザ-ですね」と言う。

★ 西市自動車が東京海上日動火災保険㈱の損害保険商品を取り扱うようになったのは1987年のこと。ちょうど「積立傷害保険」が人気を呼んでいた頃で、初年度から積立収保一億円を達成。その後も「積立保険20年連続収保一億円」、2002年3月には「がん保険:単月111件成約」などという快挙を成し遂げている。 下関市豊田町の人口は5500人弱で、約2,000世帯の三分の一がお客様という。これは「事故対応:レッカ-作業24時間対応」などのお客様サ-ビスの徹底もさることながら、伊藤涌二会長の持ち前のエネルギッシュな営業力の結果、というほかない。

・「販売の指南書などに、よく『営業は人間力』『営業は断られてから始まる』などと書かれていますが、私自身も車と保険の販売を長く経験してみてその通りだと思っています。仕事は何でも今日一日を大切にして常に前向きに取り組めば、道が拓けるものです。そして信頼が第一です。まずは両親は勿論ご先祖さんへ感謝し、(これからも)さらに努力していかなければいけません。」

★< 保険部門は三人体制。1998年から生保販売15年のキャリアのミツエ夫人が参加。兼業部門全国生保コンテストでは、18回入賞しております。> 東京海上日動あんしん生命㈱が営業を開始して二年目の1998年、大手生保で15年営業の仕事に携わっていたミツエ夫人が西市自動車に入社する。損保は伊藤さん、生保はミツエ夫人という二人三脚により、「売上、収益とも本業の車の整備販売を上回る」レベルまで保険部門を育て上げ、まさに強力な援軍の登場であった。

・「私が一人で営業しているときは、生命保険の収保が一億円をどうしても超える事ができせんでした。それが2003年度に約六億円を数え、「生保&生保長期第三部門」は1999年度から15年連続入賞、これは本当に家内の功績が大きいです。お客様の細かいニーズにあわせたパソコンによる生保設計などは全て家内に任せています。本拠地:豊田町は伊藤涌二会長の担当で、ミツエ夫人は豊田町以外の周辺の市町村を営業訪問している。

・ 「家内は私と違って白地訪問を基本とし、一歩一歩着実にお客様の信頼を集めるタイプですね」一方、ミツエ夫人は、「主人はやんちゃな子供がそのまま大きくなったような裏表のない人で、いつもプラス思考で元気いっぱい。判断も早く正確で、頼りになります」と笑う。ミツエ夫人とともに後継者である孝之さんの入社も、伊藤会長にとっては心強い。

・孝之さんは整備の資格をもち、会社全体をみる一方、保険部門では現在、主に損害サービスを担当している。「孝之の性格は誰からも好かれるタイプ。対応でもきめ細かく対応していて、なによりもお客様のことを第一に考えています。その点では何の心配もしていません。」

・ < 温泉と海外旅行で気分転換。町内の「ゴミ退治」。少数精鋭の地域密着型代理店へ。連続全国入賞が目標。>

★豊田町一帯には温泉があり、伊藤会長は「温泉入浴」をはじめ、山歩き(森林浴)や海外旅行で英気を養っている。海外ではラスベガスに商売の真髄を感じるという。USA「ラスベガス」は、ホテルの設備でもショーでもお客様サービスが徹底していて商人の姿勢として学ぶことが実に多いのです。」伊藤会長はまもなく73歳、とっくに還暦を迎えている。「還暦ということは特別意識していません。75歳までは第一線で働くつもりです。」とキッパリ。

・ ここ10数年続けているミニバイクで深夜空カンなどのゴミを拾うもの日課となった。「自分が生まれ育った自然豊な町が汚れていくのは我慢できないし、それに、「ゴミ退治」をしていると自分の気持ちも綺麗になります。これらは次の世代へのバトンであると考えています。私のささやかな社会貢献ですが、これを自分のライフワークにするつもりです。」

★伊藤会長の座右の銘は「成徳達材」。これは「徳器を成就し材能を発達す」という意味らしく、伊藤会長の説明によると、『人間はすべからく、一生懸命勉強し、努力し、そして立派な人間になって、それを世の中の為に役立て、さらに後から続いてくる人の為に残しなさい』という孟子の教えを、「吉田松陰(先生)」が伝えて来た言葉であるとのこと。常にこの「成徳達材」を自分自身に言い聞かせ、日頃から常に心がけているという。

・西市自動車は、車の整備と販売、そして保険と三位一体路線を走ってきた。保険部門の将来展望については、「規模拡大は私の念頭にはなく、山椒は小粒でもピリリと辛い、お客様サービスに密着した代理店でありたいと思っています。そのためには当然、スタッフ一人ひとりがさらに力をつけ、小数でも精鋭集団である必要があります。」と語る。また、伊藤会長はキャンペーンに参加すると、自分の中に思いもよらない力が生まれてくることがあります。保険の仕事に力を入れたのは、東京海上日動グループとの出会いにより、自分の潜在能力を引き出されるのではないかとそんな期待もあったからです。」 mylife