日別アーカイブ: 2013年7月26日

我が家の夕食です 『人生哲学』  其の二

‘東京行き’から帰ってきて、最初の我が家の夕食ですね。筆者は、何でもいきなりカメラを向けますから、家内のミツエさんも心得ており??、スナップのような夕食が出てきました。本当に、あるものだけでの食事(買い物をしていない為)ですが、これは実に体に優しく、お金もかからず、シンプルであります。アスパラガスは、先日の「藤野宣義」さんから頂戴したもの。特に「ナスの辛子漬け」は、絶品でしたね。宇内の木村のお母さんからの提供であります。お米は亀石さんで購入、何と!何と!全て「宇内~金道」地区であります。この地域の農産物は、お米は勿論ですが、土壌の関係か?全てが極上のランクにありますね。ここ地元では、宇内~金道~八道、そして庭田地区は、(特に)お米がピカ一であります。これは他地区の方には内緒の内緒の話であります。

・ついでの話ですが、農家では自分の作られたお米、一番美味しい出来栄え!を(自己消費米として)食されます。まあ、当然の話ですが、おなじ地区でも、その味は異なるのです。山から綺麗な清水が流れてくる、そして適度に日当たりが良く、好条件のところは(まあ)抜群のお米が出来ますよね。それはJAには出さず、親戚や子供たちに送るのです。そのおこぼれを「飯米」として頂戴する!ここが「ド田舎会長」の腕前!であります。爆笑 (精米せず→黒米の状態で、30キロ=¥8000)
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《人生哲学2》既にご存知のように、筆者は昭和20年2月生まれ、現在68歳であります。とっくに定年を迎え、年金生活の年齢であります。(しかしながら未だ)小さいながらも会社の経営者であり、現役の会社役員の立場であります。言わば、年金は「基礎年金」部分のみ頂戴し、会社からは役員報酬を頂いています。高校や大学での同窓生は、既に、現役を退いて年金生活でしょうね。中には、会社の都合で(辞めたくなくても)辞された方もおられるでしょう。

・まず、このような体力と気力を授かった「ご先祖」さんに感謝しなくてはなりません。先日に引き続いて「人生哲学」らしきコメント2弾をしてみましょう。ご先祖さんといっても、まずは両親でしょう!幼児の頃からの節目の異常な行動?いや本人(筆者は)はすこぶる真面目なんでしょうが、小学校低学年から新聞を見ていました。勿論、その中の一部分ですね。小学校5~6年の頃、初めて貰った「努力賞」の表彰状を神棚へ(自分であげました)。これには両親は勿論、兄弟姉妹は呆れて?いたとか、、。自分と弟以外は(みんな)「優等生」でしたから、おかしかったのでしょう。小学校3~4年の頃は、成績的には中ぐらいの上、全く目立ちませんでした。

・この「努力賞」事件?後、何処となく頭角を現して来て、中学校1年には(ほとんど勉強はせずに)5~10番の位置におりました。中学2年の実力テストや期末テストで(テスト前に少しばかり勉強の真似事=自分の部屋も無く、勉強机などありません!)5番以内が定着し、2学期には一番になったことがあります(78人中)。とは言うものの、所詮、ド田舎のレベルなんですね。実兄(2歳上、既に下関西→九州大)のコースとおなじ、3年から下関市の日新中に転校、いわゆる越境入学であります。これは、下関西高校を狙うためでありました。日新中は生徒数が750人前後のマンモス中学校です。15クラス(50人学級)くらいあって下関西を受験可能は50番以内が絶対条件でありました。

。何と!転校した中学校3年生、1学期(最初の)実力テストは確か?261番でしたねえ!始めて見る問題の数々、中には全く見たこともないことばかり。言わば、田舎と都会?では、教科書さえも違っていたようです。その辺りから自分の「人生哲学」らしきものが熟成していったと思います。言わば、すでに退路は絶たれ、進む方向は決まっているからです。その261番から生まれて初めてその気になって勉強=ほぼ丸暗記 がスタートしたのであります。常識ではその席次の番数では、進学校である「下関西」を受けさせてもらう番数まで昇ることは99%無理ですね。勉強が好きとか嫌いではなく、何が何でも合格しなければならない!田舎へはもう帰れない!そんな追い詰められた状況でありました。

・受験資格を得るためには、クラスでまず男女で5番以内、これでも15クラスありますから75番、ダメですね!3番以内これでやっと受験資格圏内であります。平均クラスの人数は50人ですから、「自治委員」に推薦(クラス内投票)がバロメーターでした。2学期には24番まで駆け上がり(クラスで3番)自治委員に推挙(襟章がもらえる)。(夏休み中に、初めて本格的に中学2年生までの再勉強=復習 をやり遂げました。)それで受験資格圏内に入ったのです。男子生徒が圧倒的に成績が良く、女生徒は「下関南高校」に行きますね。結果的に下関西を受験出来たのです。しかしながら(本番で)何と!何と!試験問題の読みがはずれ?(全てが暗記型勉強の為、おなじ問題が出るわけも無く)高校受験は完全に失敗!落ちた!と思いましたねえ!

・高校受験が終了し、点数を付けて見ると(自己採点)生家には、地元高校の年配先生が下宿しておられました(故人)合格ラインにギリギリの点数であることがわかりました。結果発表、合格者288人中、260番?辺り、最低点数にその差5点くらい、滑り込みセーフであります(不合格者は僅か!60名ばかり。)

・(余談)入学試験が終わった数日後のある土曜日、落ちた!と思った自分は、下宿からトボトボと歩いて田舎の生家に向かっておりました。おおよそ35キロありますからね。唐戸~長府~小月そして、菊川の終わりごろの「西中山」の峠のところ、時間は深夜0時過ぎ、地元のタクシーが傍に停車しました。(名前を聞かれ)中学生が深夜、歩いているのを見かねて?、乗せて頂いたのであります。この方は同姓で伊藤のタケさんと言う方ですが(縁戚ではなく、後日判明した)、筆者の親父さんの子分のような方、あくる日、全てが町中のうわさとなりました。
アクセス数が良ければ、続編をコメントしましょう。高校~大学受験~故郷へ~結婚~会社~保険分野進出~連続全国入賞へシフトなどなど

<当時の下関西は、60番で九大、阪大受験OK!、東大と慶応を除く6大学や地元山口大は150番前後で合格しておりました。東大合格者は、毎年10名くらい、288名の内、260名くらい大学進学だった!と記憶しています。>