日別アーカイブ: 2022年11月3日

ド田舎会長「人生哲学」11

2014年1月3日ぶん

《人生哲学11》
・筆者の幼い頃は、このような「お餅つき」は普通のこと。年末には「お飾りモチ」や「雑煮用」、2月に入ると「寒モチ」いわゆる切り餅?=「こおりモチ」と言っていた、、、ですね。ついたお餅の塊(かたまり)を入れる木箱が沢山あって、(ついた餅は)数日後に硬くなり、それを餅切り機(わら包丁みたいな?)や包丁で切るのが我々子供の仕事、嫌でしたねえ!厚く切りすぎたり、薄すぎたり(今思えば実に危険な作業!)、それを和紙(使用済み=昔の大福帳綴り など)に挟んで吊るすのも子供の仕事、半端な量ではありません。裏の2階一面に(吊す)干すのです。

・モチ粉の付いた木箱を洗うのも手伝いのひとつ、冷たい井戸水で洗うのです。他にも広い廊下(縁側)の拭き掃除(雑巾がけ)も順番制、何せ!広い~大きな長屋のような家でした(何でも150年前後経過、目の前の「中野家の長屋?倉庫?」を購入したらしい。)(現在の豊田総合支所の駐車場の1/3、手前の道路から奥の山田川まで、敷地がありましたから=巾10米以上、奥行き30米以上、、。まあ、筆者は真面目にしませんでした、、。もっぱら「風呂焚き」が専門、(なま木に)火をつけるのも技術(要領)がいります。五右衛門風呂に井戸水を入れるのも子供の仕事(バケツにて)、これが一番きつかったですねえ=当時、水道など無いころ。

・このような光景(もちつき)を目にしますと、ついつい、蒸したてをつまんで「つまみぐい」をする癖がでて来ます。(木材業の傍ら)当時まだ雑貨店(小さな何でもやさん)をしてましたから、お手伝いさんもおられたような記憶があります。たくさん(お餅)をついて、どうしたのでしょうか?売っていたのでしょうか?(戦前は、かなり大掛かりな店だったとか!)

・現在、住んでいる我が家にも「広縁」がありますが、生まれた家の思い出がそうさせたのでしょう。それと2階が嫌でしたから、平屋にしたのです。前2階は薄暗くほとんど物置の状態、数度しか上がったことがありません。そこで、大きなガラス瓶(長さ50センチ幅25センチ以上あった)の中の「白砂糖」を見つけたのは、紛れも無く筆者であります。いわゆる「闇物資」でしょう。昭和26年頃の話です。同級生の中島暢彦君(現在、豊饒姓)だけは知っています(超悪ガキ)。それを学校に持参して、脱脂粉乳のミルク(焦げ臭くて、美味くない)に入れて、それは~~とても甘くて誰にも言いませんでしたよ!

・そう言えば、学校から帰ると、カバン(布製)?を放り投げて遊びにまっしぐら、家にいると色々用事をさせられるからでしょう。暗くなるまで帰らないことがしょっちゅうでした。これも要領が良かった?。家には勉強部屋とか勉強机などありませんから、俗に言う「りんご箱」に紙を張っていたのが机でしょうか?(小学校の4年生までは)、勉強(宿題など)はした記憶がありません。その点、兄や姉は筆者より家の用事をさせられたことになります。筆者と弟以外(兄~姉)は成績では(学年で)1~2番でしたね!いわゆる「優等生」でした。