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「後山邦秋」さんからのコメントです。その➅

「後山邦秋」さんからのコメントです。
   2021年6月1日ぶんです
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「らっきょう」と日々格闘されてますね。お元気そうで安心しました。梅雨の中休みでしょうか、暑い中での作業大変だと思います!くれぐれもご自愛ください。今、「高倉健」 男の美学 と言う本読んでます。若い頃から健さん追いかけて来ましたね。未だに、追いかけてます。一途な思いって生きるエネルギーになりますよね。身近に健さんを語り合える人はまずいませんね。ファンレベルの人は沢山いますが、半端ないレベルの人はいません!会長は貴重な存在でしょうか。何事も、狂うくらいやらなければ見えて来ない世界があると思うんです。Bakaじやできない、Rikouじゃやらぬ!会長との共通点は、そこら辺りに有るのかも、知れませんね。

↑「後山邦秋」さんからのコメントです。

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筆者補足 ↓
検索願います! ヤフージャパン
「一定」(いちじょう) 尺八演奏動画が観れます  ↓

「美の種 in 下関 青連& 尺八 後山邦秋」

もしくは
 「美の種 アブニール 後山邦秋」 で検索願います!

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↓ 筆者 転載

【日刊スポーツ 只松憲記者】
物語は1通の手紙から始まった。
「給料はいりませんから、野球の指導をさせてください」。それは下関国際の校長室にある日、突然届いた。差出人は「坂原秀尚」。「こんな人がいるのか?」。当時校長で現理事長の武田種雄氏(73)は言った。前代未聞の展開で、下関国際野球部の歴史は動いた。
 坂原氏は広島国際学院高-広島国際学院大を経て、社会人ワイテックで5年間プレー。その後は下関市にある東亜大で教員免許の取得を目指した。その東亜大の近くにある高校が下関国際だった。当時、グラウンドには雑草が繁茂して、道具も散乱していた。部員も数えるほどで、まともな練習はしていなかった。不祥事で監督も不在。見かねた坂原氏が立て直しを志願した。
 手紙を出した時、坂原氏はまだ教員免許がなかった。学校側も教員として採用はできない。それでも武田校長は熱意を買った。校務技師や付属幼稚園のバスの運転手を頼み、“アルバイト”をしながら野球部の指導を依頼した。そして05年8月に正式に監督へ就任。拾ってくれた武田校長に、坂原監督は何度も頭を下げた。
 鬼軍曹となり、徹底的に部員を鍛えた。「弱者が強者に勝つ」。無名選手だった現役時代からの座右の銘を胸に、学校や武田校長への恩返しを誓っていた。
ある日、私立の強豪校から監督就任の依頼があった。待遇は当時の給料の2倍だった。何度も口説かれたが、武田校長の前で釈然と断った。「武田先生や子供たちを甲子園に連れていく。だから行きません」。
 だから苦難を乗り越えてきた。無名の弱小校と冷やかされる日々。お金もなかった。地域の餅つき大会に部員と参加してはお金を稼ぎ、遠征費やスピードガンの購入にあてた。
辞めていく部員には、朝迎えにいって引き留めた。「3年間やることの大切さを感じてほしい」。猛吹雪の中、一緒にランニングに付き合う冬を何度も過ごしてきた。武田理事長は「うそ偽りは1つもない。本当に映画のような物語なんです」と言う。
 かつては部員1人、荒れたグラウンド、不祥事での大会出場辞退の時代もあった。坂原監督はその全てを作り変え、17年をかけて全国2位まで育てた。
「苦労人」という言葉だけで片づけられない。それが坂原秀尚という男だ。

↑転載記事です。