日別アーカイブ: 2014年1月24日

お待たせ!我が家のお正月 b  『人生哲学』 其の十二 

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↑ 筆者8番目の孫 「いとう よしなり」 ギリギリが二つ(筆者も二つ)父:孝之
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↑ 筆者、5番目の孫(いとう りんたろう)父:正之
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↑ 真ん中 4番目の孫(うちのの しょうま) 母:真理
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《独り言》 先ほど22時過ぎ、帰宅しました。18:15より、東京海上日動火災保険㈱下関支社 第4回「モーター代理店」の、研鑽会~懇親会に参加していたのです。(東京第一ホテル下関 3F桜の間)代理店17社(22名)社員14名 山口支店から「京極常子」支店長も参加されました。後日、スナップなどお送りします。

< 人生哲学 其の十二 >

この「東京第一ホテル下関」ですが、この土地所在地には、懐かしくもあり、また、iyana記憶もあり、複雑な気持ちになるのです。前にもコメントしておりますが、ここには親父さんの姉(辻チヨ)の実家(高級割烹料亭 鉢の木)があったところなんです。料亭の建築は戦前でしょうが、筆者が最初に訪れた(遊びに行った)のは、(一番上のスナップ)ちょうど8番目の孫のあたり、3歳~4歳の頃の記憶があるのです。それは、鮮明に覚えていますが、誰か?と幼児用の三輪車で「唐戸埠頭」現在のカモンワーフ  まで行き、その埠頭で三輪車と共に、海に落ちそうになったのです。どういうわけか?落ちる瞬間(少し下っている=坂になっている)三輪車から飛び降りて、事なきを得た!という、嘘みたいなホントの話を、実に鮮明に記憶しているのです。その三輪車は、大人の人が(海から)拾い上げてくれたまで記憶しているのです。昭和23年か24年の(かなり昔の)話ですね。

・筆者の母親が最初に産んだ「長姉」辻洋子は、ここに養女に出され(生後まもなく、産んだ母親の承諾も無く)アト二人の姉は、ここの地下の部屋に下宿、(三人の姉は)梅光女学院高校へ通ったのです。毎年のようにここ(料亭 鉢の木)に遊びに行き(夏休みなど)泊まったのを覚えています。現在の価値で言えば数億円は軽くかかるであろう?地上2階地下3階の大きな建物(和風)であり、豊田町の石材(崋山石)をふんだんに使い(現在は違反)材木も豊田から(これまた)ふんだんに使った大きな建物でありました。

・地名を「稲荷町」と言い、はるか江戸時代末期には「大阪屋」と言った「妓楼」があった処、当時の自分は知るよしもなく、その後(丁重なるsagiにあって)今日を迎えているのです(念のため、東京第一ホテルとは、関係ありません)。昭和の56年頃まで??「割烹料亭 鉢の木」はありましたねえ!毎回、コメントでおなじみの takashi君 と奥様とを、厳重に説諭!(結婚の決断を促した!)場所でもあります。(筆者35歳 初めての仲人でありました。)家主(経営者)の叔母には(当時主人は既に亡く)やりての大女将であったようです。相続財産(土地~畑など)筆者2歳の時に、既に筆者名義にしていたと言う、想像できない?これも「先見の明」?と言うんでしょうか?現在でもその土地の一部は、弊社のスクラップ置き場として、重宝し活躍しています。