世良修蔵」カテゴリーアーカイブ

7月 小旅行  報告⑨ 中津川市c 「桂小五郎の隠れ家」

中津川市を再訪して、(一つだけ)確かめてみたいことがありました。それは(表題の通り)「桂小五郎の隠れ家」のことですね!桂小五郎と言えば、自分の子供のころ、漫画などで「三条大橋」のたもとでの乞食姿を思い浮かべます。鞍馬天狗の頃です。(笑い)素人歴史愛好家になって、桂小五郎が「維新の三傑」=西郷隆盛~大久保利通~●木戸孝允(桂小五郎) の 一人であることは判っていますが、中津川に隠れ家があることを、前回(チョロット)その表示看板を見ておりました。料亭「やけ山」(隠れ家跡)を見学しました。

「長州藩」末裔の一人として、見逃すわけには行きません。まあ、「逃げの小五郎」とも言われ、(結果)暗殺&戦死 では無く病死(明治10年 43歳没)で生涯を終えたわけですが、もう少し生き永らえておれば、「伊藤博文」より先に総理大臣になっていたでしょう。結論から言えば、1862年の6月3日に、当時の13代藩主(毛利敬親=慶親)の江戸帰り(参勤交代?)を待ち受けて(いわゆる)「中津川会談」なる(藩主との)政治的交渉を行なった!と記録されています。。

筆者の大好きな「幕末」「維新」から見れば、この時点では「坂本龍馬」「世良修蔵」も生きており、「蛤御門の変」も「鳥羽伏見の戦い」も、まだ起きていませんね!この藩主との話し合いで決まったことは「公武合体」の毛利藩の方向を「尊王攘夷」=その後「尊王倒幕」 に方向転換する(歴史的に)実に重要な話し合いを行い、(そうせい候と言われた)毛利敬親藩主の(三日がかりで)説得に成功、いよいよ激動の幕末(大政奉還&戊辰戦争)~明治維新に突入していくのです。

桂小五郎は、一度は捕まりそして逃げて、あちらこちらに「隠れ家」があったようです。かなり良く判らない部分が有るようですが、このように150年以上経っても、その隠れ家として(丁寧に)保存してある「中津川」の皆さんに感謝したいと思います。

☆「中津川市中山道歴史資料館」 安藤嘉之館長 にもお目にかかり、いろいろと教授頂きました。(感謝 感謝)

7月 小旅行 報告④ 「世良修蔵」墓参 (宮城県白石市)

7月14日 厚狭発~新山口「のぞみ」にて、東京へ 東京駅で「矢野公哠」氏と合流、東北新幹線にて(一路)蔵王白石に向かいました。ここに長州藩士(奥羽鎮撫総督府下参謀)「世良修蔵」の墓所があるんです。矢野さんは、世良修蔵の傍系子孫ですが、筆者と同じ「下関市豊田町」生まれ、現在は町田市に住んでおられます。

昨年度、戊辰150年忌の節目にあたり、福島市の「長楽寺」にて150年忌の法要が催行されました(50年毎)。宮城県白石市在住の「田切誠人」氏の進言により、(自分は)山口県から唯一この法要に参列しました。その前日、ここ「蔵王白石」に出向き、「世良修蔵」墓所を訪れました。戊辰150年目と言うことで、昨年はかなり綺麗に整備されていました。=白石市福岡蔵本「陣場山」  2019年7月14日 「田切誠人」氏 撮影

宮城県に長州藩士の墓所がある、それもかなり大掛かりな敷地、これまで宮城県もしくは白石市の予算(税金?寄付金?ボランティア等)で保守管理や周辺整備をされてこられたわけですが、素直に考えて(歴史的な墓所?)とは言え、地元の皆々様には、苦渋な決断を迫られることかも知れません。記録的には、当時の政府が宮城県に墓所建立を指示したと思われます。(明治の初め)政治的(時期的)にも薩摩(鹿児島県)~長州(山口県)による統率が続きましたからね!(自分が)10数年前に(最初に)訪れた時と比べて、あるべき表示物が無くなっているようでした。(長州藩最高幹部)「木戸孝允」献灯の表示はそのままありましたが、「明治天皇行幸」云々の表示は見当たりませんでした。☆「招魂碑?」が建立中でした。

素人考えですが、ここに(新たに)「招魂碑?」を建立することにより、「世良修蔵」墓所の維持管理が、し易いように考えられたのでは?と思いました。あくまでも(敵陣である)長州藩士隊長の墓所ですから、山口県の側からも、何らかの方法で、資金提供(寄付金などでも)して、維持管理に協力する時期に来ているのでは!と感じましたね。小さなお墓ではなく、「陣場山」と言う小高い丘を占有している(かなり)広いの墓所ですからね。山口県(庁)としては、想像だにしていないのでは、、、“ そんな予算はありません!” で一笑に付されることでしょう。安倍晋三首相は、ご存知でしょうかねえ?

≪ 参考 ≫ 宮城県は1872年から76年まで「磐前(いわさき)県」でした。墓所建立は当該県と思われます。