「藤本貴司」さんから頂戴したコメントです。その 24

「藤本貴司」さんから頂戴したコメントです。
    2016年2月23日ぶん

おはようございます。
「金子みすず」の故郷、仙崎港ここに戦後間もなく大陸からの引揚げ船が沢山入港して、引揚者救護所があり、青海島に渡る橋の右手前岸壁に「引き揚げの地記念碑」があります。

実家の母も戦後の一時期この救護所で看護婦でした。
昨年8月、戦後70年、実家の母がそっと孫に話したそうです。昔を多くを語らない母が記憶が薄れないうちにと「おばあちゃんは、山口の日赤の看護学校をでて、終戦の日を東京新宿の陸軍第一病院(現在は国立国際医療研究センター、終戦時は一面の焼け野原)で迎え17歳だった。昭和20年3月の東京大空襲の後、人出が足りないと6月に全国から看護婦が集められた。

東京までは途中、何度も空襲にあい列車で一週間かかってようやく到着、手が空いているときは焼け野原の釘拾い、8月6日広島に新型爆弾が落ちたということで東京から応援に行くということになり、愛媛県のグループが各県バラバラで行ってもダメ私たちがまとまって行くと原爆投下直後の広島に行かれ、その後のどうなったかはわからない。間もなく皇居前でラジオ放送を聴き終戦を知る。その後どうやって帰郷したか、あまり覚えていないが、貨物列車の石炭の上にのった時煙で息を止めながら帰ったことだけ記憶に。

戦時中、8人兄姉弟妹の五番目で親を助けるため看護婦になろうと親に内緒で給料の高い満州の看護婦募集に応募合格、これが親に知られ大叱れ、山口の日赤へ。それから72歳まで現役看護婦。

会長のブログ拝見、戦後70年世代が変わり薄れゆく記憶や出来事語り継ぐことも大事です。

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「児玉進矢」さんから頂戴したコメントです。
  2022年12月16日ぶん

今年の漢字が発表されましたね。「戦」でした。多くの人の心象風景には、ウクライナに降り注ぐミサイルや爆弾があったのでしょう。ちなみに2位は「安」。コロナ禍が一段落して安心という意味でしょうか、はたまた志半ばで斃れた安倍元首相を偲んだのかもしれません。ともあれ、「戦」であれば納得です。

ただ、少し考えてみたのですが、もし私がウクライナ人でウクライナにいたら果たして「戦」という文字がしっくりきたのかな?現実にミサイルが飛んできて、親しい人が亡くなる、家を焼かれる、電気は来ない、寒くて堪らない、食べ物もない、、そんな時には「戦」という客観的な文字ではなく、「悲」「恐」「憎」「寒」「飢」のような主観的で感情溢れる文字でないと、その現場にいる人の気持ちを表すことはできないように思います。「戦」を選べるということは、安全な世界から見ていることを意味しているように思えます。

太平洋戦争中の日本人なら多分「戦」ではなく別の一文字を選ぶでしょうね。今、防衛費を巡り色々と動きがありますが、硬軟織り交ぜて、近隣のややこしい国々と上手く渡り合い、末永く平和を維持して欲しいものです。

1 thought on “「藤本貴司」さんから頂戴したコメントです。その 24

  1. 藤本貴司

    児玉さんから今年の漢字「戦」コメントがありましたので、太平洋戦争末期の頃のお話しを少しします。
    数年前に昭和20年4月に東京在住(戦前我が家から少し美祢市寄りの山中に小さな炭鉱がありました、その一家族が東京の方で、終戦前に東京帰られたそうです)の方からの古いハガキが1枚出てきて「帝都の春は桜が満開です」の書き出しで始まり「戦地(中国南京方面)に行かれた○○ちゃん(私の父のこと幼なじみ名前で)元気でしょうか、便りはありますか?」云々と書いてありました。けど当時の東京は3月大空襲などで一面の焼け野原になっていたのではと思います。ハガキ文面に「焼け野原」という字句あれば軍当局の検閲で郵便物は没収されると発信者の方が「桜は満開」と書かれたのではと思います。
    つい最近に片付け中に父が戦地から郵便ではなく、戦地から帰国される軍有力者の方に預けた手紙がでてきて(昭和20年冬の頃)食料事情が書かれていました「わずかな米粒のご飯は、実家で牛に与える麦より硬い麦が混ざって硬くて硬くて・・・」「暖房が全くなく、手紙を書く手が凍えて字が思うように書けない・・・」云々(これらも郵便なら検閲で届かなかったでしょう)戦地での事余り話さなかった父ですが、中国南京方面で国民党軍(現在の台湾政府樹立)配下で終戦後も武装解除されず(当時の中国は共産党軍と内線状況もあって)日本軍がいれば攻めてこないという事で日本引揚げ港で武装解除されて内地に帰還(満州方面ならシベリア抑留、軍人以外の青年も抑留され奉天医専の医学生だったおじも抑留され医師になられず)したそうです。通信隊だったそうで、前線に行く時は伝書鳩(鳩班がついて行く場合は極めて危険)を連れて行っていた。戦後は戦友部隊員の多くが電々公社や郵便局の職員になられたそうです。

    少し長くなりました。ウクライナで長引く戦禍、コロナ禍等々の中ですが、平穏無事に暮らせる有り難さを噛みしめている今日この頃です。

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