世良修蔵」カテゴリーアーカイブ

「世良修蔵」b(明治維新150年)&(戊辰戦争150年)

「世良修蔵」について、二回目のコメントをします。長州藩士「世良修蔵」山口県大島郡椋野町(現在の周防大島町=第二奇兵隊)が「戊辰戦争」の始まりの頃、(深夜)奥羽福島の金澤屋で襲撃され、阿武隈川で斬首された。昨今、この「世良修蔵」惨殺が(歴史学者や歴史愛好家の間で)研究?~再考?されています。「世良修蔵」の人物そのものは(実際)どうだったのか? 「司馬遼太郎」や「早乙女貢」などからミソクソに書かれ、NHKテレビドラマや民放テレビなどでも、その表現には目を覆いたくなるような悪行三昧の表現であります。(長州~山口県に来てその素性なりを調べたのか?本当の「世良修蔵」はどうだったんだ!などなど)

☆「世良修蔵」長州藩士 僧月性派 第二奇兵隊(軍監)大島口の戦い 鳥羽伏見の戦い 奥羽鎮撫総督府:下参謀(実質の指揮官) 福島金澤屋で襲撃される 阿武隈川で斬首  宮城蔵王白石「陣場山」に墓所

★それはそれとして、(戊辰戦争について)ここ数年の間(歴史研究者によって)、様々な事象(新資料)が発掘(発見)されています。

①会津戦争(1868年)「市中に転がる屍(しかばね)、一年間葬ること無かれ!」、これは新政府側(特に長州藩)が言った!とされる(会津地方での)伝承ですが、→(新政府側が会津に対し、死者の埋葬を禁じていたという伝承)強烈ですね!
☆元会津若松図書館の「野口信一」氏の(会津戦争)史料研究で、(新政府による)「埋葬許可証」並びに「埋葬者一覧表」などが、会津藩士の子孫の遺品の中から発見され、(ごく最近のこと、ここ数年前)注目を浴びています。

②俗に言う「世良修蔵」の悪行三昧ですが、元柳井図書館長「谷林博」氏が、5年に渡っての(東北地方)調査により、「世良修蔵」の人物像が明らかにされて来ました(世良修蔵は ・学者タイプ、・超真面目、・インテリ だった?)。東北での聞き取り調査で、“ 世良は気の毒な人だった!” → 白石城主の末裔(片倉信光氏の弁あり)(昭和49年9月発行、歴史書「世良修蔵」による)かなり歪められた伝承となっています。
宮城県白石市福岡蔵本「陣場山」に建立されている(実に立派な)墓所(明治天皇が、東北行幸時立ち寄り 木戸孝允 献灯)、福島市舟場町「長楽寺」での150年法要=筆者参列(50年ごとの法要が行われている)、福島市宮町「福島稲荷神社(裏手)」にも、立派なお墓が建立されています。

③江戸幕府末期から明治新政府にかけて(幕末期)「孝明天皇」の崩御(35歳で急死(崩御)=天然痘? Anーsatu??)孝明天皇直筆の「会津藩城主 松平容保(かたもり)」に対して、信任状?らしき書状が発見されたこと(ごしんかん=手紙?)。その後の「王政復古の大号令」や「錦の御旗」???などとの絡み。その時期、明治天皇の年齢は(若干)16歳? 天皇→天皇の取り巻き公家の新政府寄り など、公家の主導権争い、策略?謀略などなど、新政府側のリーダー(重鎮)(西郷隆盛 大久保利通 木戸孝允 岩倉具視ほか)の・・・・?のきな臭さを感じますね!(若き「明治天皇」周辺公家の囲い込みなど、闇から闇、謎な部分が多いのです)
続く、、、、

★筆者の「世良修蔵」惨殺について
①長州藩内での権力闘争(派閥争い)⇒吉田松蔭派と僧月性派
②余りにも切れ者であった為、「捨て駒」とされた?⇒奥羽地方制圧の為(先に手を出させた→仙台藩士他 「金澤屋」襲撃は案外 予測の範囲では?)
③長州人特有の言葉使いが(高圧的な言動や振る舞い などなど)封建的な東北人=武家社会を 怒らせたことは事実であろう。
④開国を急ぎ、日本全土の早期統一を考えた (新政府軍は)奥羽地方の制圧が必須であった!

A「新政府軍」⇒「幕藩体制からの離脱」新日本国家の建設
B「奥羽列藩同盟軍」⇒ 武家社会の大義を貫いた。

特に新政府軍と「仙台藩」「会津藩」「庄内藩」との戦い(戊辰戦争が拡大へして行く)

「世良修蔵」 a(多くの「応援コメント」に、感謝!感謝!)

ド田舎会長ブログを再開して、(今のところ)何とか?順調に推移しています。全国各地の有志の方々から、ありがたいコメントをたくさん頂戴しています。やる気が起きますね。

色々なことが走馬灯の如く駆け巡ります。この4月頃から一番の関心ごとは「世良修蔵」没後150年の法要に出席したことでしょう(福島市 長楽寺)。1868年4月20日(閏)長州藩士(新政府軍)「世良修蔵」は、福島北町の金澤屋(旅篭=商人定宿)で襲われ、阿武隈川の支流(寿川)で斬首されました。筆者地元「豊田町」の「楢原」地区に「世良修蔵」の傍系子孫である「矢野徳夫」(やのよしお)さんと(筆者が)懇意にしていた関係で、没後150年法要に参列したのです。

今年は明治維新(戊辰戦争勃発)から150年(1868年)で、(それぞれ各地で)様々な行事が開催されています。問題はこの「維新」と言う文言ですが、東北では「戊辰」(ぼしん)と言われており、その違いがはっきり判ります。詳しくはネットでみていただくとして、(筆者は)この「没後150年」法要に参列したのです(福島市 長楽寺)。
実は「ド田舎会長」ブログの中に「世良修蔵」の記述があるわけですが、そのブログ記事に到達された「宮城県白石市」の「田切誠人」さん(40歳代)から法要の開催の知らせがあったのです。(参列のお勧めでした)

法要のあくる日の4月21日、「福島民友」「河北新報」「朝日新聞」(地方版)には、法要の記事が掲載されています(筆者は記者数名に囲み取材を受けたもの)
合掌のスナップあり→朝日新聞。一般的な感想として、敵地(奥羽)にも関わらず、立派な墓所があり(白石市 陣馬山)~(福島 稲荷神社)さらに150年経過した今日にもかかわらず(敵軍指揮官の)「没後150年法要」が営まれたことに対して、とても驚いた!と申し上げました。
萩(毛利)と福島(会津)との確執、「新政府軍」と「奥羽列藩同盟軍」との(それぞれの)「正義」「大義」の違い、今なお収まることの無いわだかまりを感じました。この「世良修蔵」の惨殺、さらには「奥羽列藩同盟」結成などがきっかけで、戊辰戦争が拡大した!と言われています。

★戊辰戦争 鳥羽伏見の戦い→ 会津戦争~~ 函館戦争(五稜郭の戦い)で終結

○外国に立ち向かう新政府を作る!→(新政府軍=薩摩藩 長州藩 芸州藩 他)
○幕藩体制下の武家社会の尊厳!→(奥羽諸藩=仙台藩 会津藩 庄内藩 他)
この大きな「食い違い」が、戊辰戦争を肥大化し(双方とも無駄な)多くの戦死者を出し悲劇の結末となったのです。(後日)続きを解説しましょう。

★「ド田舎会長」ブログ内の検索「世良修蔵」も面白いです!「奥羽鎮撫総督府 下参謀」=実質の指揮官=新政府軍の隊長

ブログ「アーカイブ」の一番下、2013年06月をクリックされますと、世良修蔵~傍系子孫の「矢野徳夫=やのよしお」さんの記事を見ることが出来ます。6月
30日~6月20まで下る 5回記載