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 (矢野徳夫さん、エピソード)②

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《独り言》長者三代続かず!と言うことわざがありますが、矢野さんの家庭もそのような感じでありましょう。父方・母方のどちらも、かなりの裕福なご先祖さんですが、結果的に全てが無くなっております。矢野徳夫さんは、下関市西南部町の回船問屋(その後、船具問屋)に婿養子、矢野千恵子と結婚。矢野さんの話によりますと、相続した財産は、おおよそ/??億円くらい、すべて無くなった!と豪語しておられましたねえ。一つはお酒三昧に消えた!それから、保証人になって土地を取られた!などなど、人のいい善良な「いいとこの坊ちゃん」だったのでしょうか?

< 世良修蔵→兄が中司八郎右衛門→世良徳壽(中司徳壽)京都大卒 (第百十国立銀行:頭取)その後、明治天皇から勲章を受ける 国会議員 →世良恒吉(北九州市若松 ほとんど情報なし、)→その4男が世良徳夫(下関市矢野家へ婿養子、ほぼ財産を食いつぶす)=筆者がとても懇意にしていただいた方→矢野公皓(東京都町田市 ・・・の土地に・・・の豪邸)

・一応「疎開」と言うことですが、(終戦後)豊田町の知り合い(その中には‘松田モト女史’も入っている)を頼ってこの地に住むこととなりました。最初は現在の豊田中央病院の裏あたり、当時から養鶏をしていたとか?その後、(松尾ヶ原)開拓団の一員として、楢原地区の中畑の地に居を構えたもの。筆者とのお付き合いはその後、地元に定着して、生活(養鶏や栗栽培やシキミ(樒)栽培が、順調に行っている頃であります。矢野さんの風貌ですが、頭髪は銀髪のオールドバック、それを肩近くまで伸ばして、ポマード(資生堂系か?)をいつもこってり付けておられましたねえ。何でも、お風呂に入っても(めったに)洗髪せず、床屋にも行ったことが無い!とこれまた豪語しておられました。実は、軽トラックの商いで、下取りを取るわけですが、余りにもその匂い(ポマード系)がひどく、中古車として売ることが不可能だった!結果弊社は大損した記憶がありますね。笑い

・色々なことを教えてもらいました。まず一つは、おなじ栗でも、どうやれば大きく作れるか?シキミもどうすれば人より高値で売れるか?野生ザルの撃退法は?高価なエビネ蘭を育てるには?家訓として、使っちゃあいけない言葉とは?そんな話に筆者は夢中になりました。全ての栽培した作物・花木など、超几帳面に数量や売り上げ代金など、何冊ものノートを見せて頂きました。このことが(数年後)、矢野家に思いもしない財産をもたらすことになろうとは?このときは全く予期もしないことであります。 明日に続く、、、、

「旭陵同窓会」 “天下第一関” b (矢野徳夫さん、エピソード)①

★懐かしき、同級生の顔が見えますね!
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《独り言1》やっと‘矢野徳夫’(やのよしお)さんのことをコメントする気になりました。矢野さんは、「世良修蔵」の傍系子孫「世良修蔵」の兄の直系、世良徳壽(祖父)世良恒吉(実父)の4男、兄弟姉妹の仲で唯一「徳」の文字を継承しています。
最近判明したこと<世良徳壽→中司徳壽から改姓(させられた?)中司家の庄屋を引き継ぐ  大島銀行 第百十国立銀行(頭取?)=山口銀行の前身 県会議員~国会議員(帝国議会)明治政府から、叙爵(勲功華族=子爵)の話があれど断り(金がかかる)明治天皇名の勲章ほかを受理する。「世良修蔵」の兄=中司八郎右衛門の長男が世良徳壽

・筆者と矢野さんの出会いですが、商売柄、軽トラをお世話したことから始まります。ある時、家の中に上がる(お邪魔する)ことがあり、その時から(本格的に)世良修蔵を研究することになりました。矢野さんのご自宅は、お世辞にもご立派な家ではなく、それこそ実に質素で小さな平屋建てでした。台所があって、部屋は6畳ヒト間、それから奥様の仕事場(裁縫室=入ったことはない)の二部屋のみであります。場所は、山際の下部、道路より5米くらい上がったところ、自宅の傍に倉庫(仕事場)と、鶏小屋がありました。裏には結構広い「栗園」があり、さらに20~30米の勾配に「しきみ」=樒 (サカキ=榊のような木々)がびっしり植えられ(接木=ツギギ)栽培されていました。

・表現は申しわけありませんが、俗に言う ○○○の形態でしょう。お邪魔した際、ミルクココアをご馳走になりました。お母様の千恵子さん(東京・町田市でご存命です。とても優しく、いつも‘伊藤君は!’とか‘ようちゃん!’とか、親しく接していただきました。そのミルクココアを出された際、筆者がその「御盆」に釘付けになったのであります。その御盆に気がつかなければ、「世良修蔵」についての「素人歴史家」は誕生しなかったのであります。ズバリ!その古くて、決して綺麗ではない「お盆」のド真ん中に「菊の御紋」が彫ってあったのです。今では、皇居などに(観光などで)拝礼した時は、お土産などで購入できるかも知れません。その「御盆」はガッシリして黒く、多分「ケヤキ=欅」か?「黒檀=こくたん」?らしき材質でした。その当時、筆者の自宅を新築したばかりで、木材の材質には結構知識がありました。

・‘この御盆、どうしてここにあるんですか?’家から持ってきたんですか?’まあ、そんな様子の質問をしたのです。矢野徳夫さんは傍に座って(タバコをふかせながら)、それ、天皇陛下から貰ったんじゃあ!なにー!筆者はビックリしたことはいうまでもありません。ここは田舎であります。ほぼ皇室には縁の無い地域。(一箇所だけありました。安徳天皇の御陵墓があり、その墓守をしておられる「神崎政徳」さんと言う古くから続いた(少し前まで、豆腐屋さん 園遊会には、数度参列されている)がありました。そのがっちりした古めかしい「御盆」がことの始まりであります。

< 矢野徳夫さんは、大正5年生まれ、平成19年秋(東京・町田市)逝去、当時の年齢は92歳でしょうか。筆者との出会いは、確かではありませんが、平成になってからか?年齢も70歳を超えておられたのでは、と思います。筆者との歳の差は、30歳ありますから、出会いの時期(筆者年齢は)は40歳前後となりますね

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