ガラケーの意味を、初めて知りました。

情けなくも「ガラケー」文言の由来を初めて知りました。結論から言いますと「ガラパゴス・ケイタイ」でありました。全く存じませんでした。まあ、ガラはガラクタ ケーは系列のケイ?と思っていましたから、時代に遅れています。周辺の皆様に聞くと知らない方も結構おられて、ひと安心!

思い起こせば、携帯電話を持ったのが(仕事柄=オート・オークションなどに行く)かなり早かったと自負しています。保証金20万を積んで(未だに返金無し)ブック式?ショルダー式?結構の重さがありました。電池の性能も良くなくて、その後 数年で握れるような携帯電話になりましたねえ。セルラーホンと言っていました。すでに30年以上前の話であります。

この「ガラパゴス」ですが、南米のガラパゴス諸島のことですね。名前は存じていましたが、このたび改めて正確な位置情報他を確かめてみました。アメリカ大陸は「北アメリカ」と「南アメリカ」です!南アメリカの頭が「コロンビア」その太平洋側の下が「エクアドル」その下に「ペルー」(世界地図より)

その「エクアドル」の太平洋側、約900㌔西側の赤道直下に「ガラパゴス諸島」(123の島々)(人口は2万人以上)がありました。いわゆる「絶海の孤島」ともいわれています。大陸から隔絶していて、独自の進化を遂げた、、というところから、日本の携帯電話の(独自の進歩)ことを「ガラケー」=ガラパゴス・ケイタイ と言われてきたとのこと、、、まあ、いい勉強になりました。

4 thoughts on “ガラケーの意味を、初めて知りました。

  1. 藤本貴司

    こんにちは、先日「75年前の仙崎~引き揚げ船興安丸」の展示会(10月1日~11月15日 長門市)に行ってみました。90歳を過ぎた妻実家の母と。
    興安丸は舞鶴港の「岸壁の母」悲話で全国的に知られていますが、こちらは大陸「朝鮮半島」「満州=中国東北部」「ロシア=ソビエト連邦」からの引き揚げ者(帰国者)です。

    仙崎港は戦後初めて釜山からの引き揚げ者を乗せて(昭和20年9月~22年4月)興安丸が入港した場所です。
    義母は「日赤山口病院」の看護婦として、11名で救護所(仙崎~極楽寺)で20年11月~21年1月にかけて 病人だけでなく、(興安丸は定員1700人の大きな船で接岸できないため深川湾沖合いに停泊)小舟で興安丸に行ったり、仙崎から長門市駅(当時は正明市)まで 荷馬車に病人があれば徒歩で付き添うことなどしていたそうです。
    興安丸には定員をはるかに超えた5000~7000人の「引き揚げ者」が乗船していたとか、、、。仙崎港からは反対に朝鮮系(当時 現在の韓国~北朝鮮)の帰国者が乗船して、釜山港に向かっていたとのこと。続く、、、

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  2. 中村久恒

    私も、いい勉強になりました、ガラ携(^_-)-☆
    「ラッキョウ」確かにおいしくなりました、カレーのトッピング、焼酎のおつまみ、漬物替わり、日本独特のツケモノ、何にでも合います、鳥取の姪が少しばかりカッパらって行きました、スマホの動作が鈍くなり困っています、「ドコモショップ」にでも出かけようかな?

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  3. 後山邦秋

    私の祖父母と母も「引き揚げ者」だと聞かされました。センザキッチンに行った時に、この場所から祖国に帰って来たんだ!と感無量でした。、(私ごときには)想像もつかないような苦労をしたようです。戦争のない平和な世界の尊さを、今更ながら染々感じます。
    ガラケイの意味知りませんでした。最近(とうとう)スマホにしました。まだ上手くいかなくて悪戦苦闘の毎日です。使いこなせるように頑張ります、、、、

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  4. 矢野公晧

    懐かしいですね。珍しい「もの好き」と仕事にかこつけて、早くから携帯電話を使っていました。当時車外に2本のアンテナを着けてステータスのような感じでアンテナだけ盗難にあいました。
    問題は通話料金が高い(記憶では1分間100円くらい))のと、、圏外がやたら多いのが難でした。東京とは言えど町並みから外れると(またまた)圏外。ついでながら当時ショルダー型電話機は出力2w(現在はその40分の1くらい)、待機時間8時間、電話帳機能20件、もちろん留守電機能等はなく、今から見ると黒電話を持ち歩いている感じだと思います。
    その後も機種を変えながら今日に至っています。3月にスマホデビューがかなわなかったが、、2026年までは使えるそうなので、それまで自分の年齢(ギリギリ戦後生まれ)を懸念しつつ「ガラケー」の伝統を守ってゆくつもりです。

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