日別アーカイブ: 2022年12月18日

JET STREAM(音楽のある風景)から ㈱燈音舎 NO.17

☆ナレーション『スゲベニンゲン』  :城達也

ハーグの町から、市電に乗って行きつく海の
長い色敷石の遊歩道に、人影もまばらな頃のことだ
その年は、幾らか不十分な夏を過ごして
立ち並ぶホテルも、カジノも 海に突き出た水族館月の桟橋も
冴えない顔をしていた

遊歩道の下の砂浜に
映画のセットみたいに並んだ
天井なしのガラス囲いの海の家が
北海の風を隔てたデッキチェアーに
浮かぬ顔の海水浴客を集めていた頃

強風に波立海が、砂まじりに濁って
一握りの若者たちの胸板を洗い
無謀とも見えるヨットの帆を
沖の波間に見え隠れさせていたものだ

チーズ色をしたオランダ娘の肌が
褐色に焼きあがる筈(はず)の夏であったが
あだな願いの季節がめぐり
心残りの遊歩道には
乗る人もないメリーゴーラウンドが
打ち捨てられたように止まっていたのだった

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〇18 愛の休日  / カラベリ

『楽曲解説』

1972年にフランスの歌手 ミッシェル・ポルナレフが、自作自唱でヒットさせた曲。ポルナレフのヒット曲を1曲だけ挙げるとすれば、文句なしにこの曲となるでしょう。日本でも1973年の年間ヒット・チャートで堂々の1位になったのですから、そのヒットの凄さが分かろうというものです。ポルナレフはアメリか志向が強いアーティストとして知られますが、この曲名が英語であるのも、そんな趣向が強く出ていると言えます。

19 薔薇色のメヌエット  / ポール・モーリア

『楽曲解説』

ポール・モーリア自作自演の人気曲で、1975年発売のアルバム「巴里にひとりリリー・マルレーン」に収録されていたのが最初です。やがてジワジワと人気が出てきた後にシングル・カットされ、今ではモーリアの代表的な曲と言われるまでになりました。モーッアルト風の雰囲気が チェンバロの音色によくマッチしていると思いませんか?

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「藤本貴司」さんから頂戴したコメントです。
  2022年12月17日ぶん

児玉進矢さんから今年の漢字「戦」コメントがありましたので、太平洋戦争末期の頃のお話しを少しします。
数年前に昭和20年4月に東京在住(戦前我が家から少し美祢市寄りの山中に小さな炭鉱がありました、その一家族が東京の方で、終戦前に東京帰られたそうです)の方からの古いハガキが1枚出てきて「帝都の春は桜が満開です」の書き出しで始まり「戦地(中国南京方面)に行かれた○○ちゃん(私の父のこと幼なじみ名前で)元気でしょうか、便りはありますか?」云々と書いてありました。けど当時の東京は3月大空襲などで一面の焼け野原になっていたのではと思います。ハガキ文面に「焼け野原」という字句あれば軍当局の検閲で郵便物は没収されると発信者の方が「桜は満開」と書かれたのではと思います。

つい最近に片付け中に父が戦地から郵便ではなく、戦地から帰国される軍有力者の方に預けた手紙がでてきて(昭和20年冬の頃)食料事情が書かれていました「わずかな米粒のご飯は、実家で牛に与える麦より硬い麦が混ざって硬くて硬くて・・・」「暖房が全くなく、手紙を書く手が凍えて字が思うように書けない・・・」云々(これらも郵便なら検閲で届かなかったでしょう)戦地での事余り話さなかった父ですが、中国南京方面で国民党軍(現在の台湾政府樹立)配下で終戦後も武装解除されず(当時の中国は共産党軍と内線状況もあって)日本軍がいれば攻めてこないという事で日本引揚げ港で武装解除されて内地に帰還(満州方面ならシベリア抑留、軍人以外の青年も抑留され奉天医専の医学生だったおじも抑留され医師になられず)したそうです。通信隊だったそうで、前線に行く時は伝書鳩(鳩班がついて行く場合は極めて危険)を連れて行っていた。戦後は戦友部隊員の多くが電々公社や郵便局の職員になられたそうです。

少し長くなりました。ウクライナで長引く戦禍、コロナ禍等々の中ですが、平穏無事に暮らせる有り難さを噛みしめている今日この頃です。