月別アーカイブ: 2022年12月

「藤本貴司」さんから頂戴したコメントです。   その25

「藤本貴司」さんから頂戴したコメントです。
   2016年3月22日ぶん

昨日のテレビは残念ながら見ていません。芭蕉については「隠密」「大痔主」であったと、今から50年前の高校時代に古典の先生(今は亡き長正司の西村先生、軟式野球の名監督、全国優勝準優勝など軟式野球野球指導者として活躍。同級生には、昭和38年夏甲子園優勝の下商の高野監督、豊田町出身がおられます)に習ったことを思い出しました。西村先生は、昭和38年に私が中学校入った時は、中学校の野球部監督でした、当時100m走の陸上部のエースを野球部代走要員にスカウトするなど、とても新しいアイデアを(その後、あるプロ野球チームがオリンピック選手を代走要員にしましたが)なぜか高校転校されて軟式野球で活躍されました。芭蕉から少し横道に入りましたが、、
★筆者注 松尾芭蕉は、「痔」の持ち主だったそうです、、、

2016年3月8日ぶん

こんばんは、先ほどまでクローズアップ現代見てました。福島第一原発事故で帰還出来ない浪江町の特集、番組残り五分に映画の山田洋次監督登場「自分は戦後大陸から引き揚げ、山口の片田舎に住みついた。福島では三世代同居していた家族がバラバラになる田舎で、家族そろって生活出来ない何とも辛い・・・・」と、福島第一原発の周辺の何万という住民の多くの人のうち、かなり多くの方も大陸から引き揚げて開拓され、自ら伐り拓いた故郷に帰還出来ない苦しさを報道。
最新社会の恩恵で、何不自由無く生活できる有り難さを感じた時間でした。
我が地元近くでも、(今から50年近く前)矢玉に原発建設の計画。当時地域を二分する大騒動、その最中にアメリカでスリーマイル島原発事故(チャイナシンドローム)で反原発側有利に、、、、その後計画は無くなったようで・・・最新科学技術を使っても、廃棄物処理困難、でも再稼働でまず!恩恵受ける自分、かなり考えてもどうすればよいかわかりません。
そのような中、日々会長経営の事務所で花に囲まれ、頂けるドリップコーヒーは、本当に幸せなひと時です。

JET STREAM(音楽のある風景)から ㈱燈音舎 NO.17

☆ナレーション『スゲベニンゲン』  :城達也

ハーグの町から、市電に乗って行きつく海の
長い色敷石の遊歩道に、人影もまばらな頃のことだ
その年は、幾らか不十分な夏を過ごして
立ち並ぶホテルも、カジノも 海に突き出た水族館月の桟橋も
冴えない顔をしていた

遊歩道の下の砂浜に
映画のセットみたいに並んだ
天井なしのガラス囲いの海の家が
北海の風を隔てたデッキチェアーに
浮かぬ顔の海水浴客を集めていた頃

強風に波立海が、砂まじりに濁って
一握りの若者たちの胸板を洗い
無謀とも見えるヨットの帆を
沖の波間に見え隠れさせていたものだ

チーズ色をしたオランダ娘の肌が
褐色に焼きあがる筈(はず)の夏であったが
あだな願いの季節がめぐり
心残りの遊歩道には
乗る人もないメリーゴーラウンドが
打ち捨てられたように止まっていたのだった

=====

〇18 愛の休日  / カラベリ

『楽曲解説』

1972年にフランスの歌手 ミッシェル・ポルナレフが、自作自唱でヒットさせた曲。ポルナレフのヒット曲を1曲だけ挙げるとすれば、文句なしにこの曲となるでしょう。日本でも1973年の年間ヒット・チャートで堂々の1位になったのですから、そのヒットの凄さが分かろうというものです。ポルナレフはアメリか志向が強いアーティストとして知られますが、この曲名が英語であるのも、そんな趣向が強く出ていると言えます。

19 薔薇色のメヌエット  / ポール・モーリア

『楽曲解説』

ポール・モーリア自作自演の人気曲で、1975年発売のアルバム「巴里にひとりリリー・マルレーン」に収録されていたのが最初です。やがてジワジワと人気が出てきた後にシングル・カットされ、今ではモーリアの代表的な曲と言われるまでになりました。モーッアルト風の雰囲気が チェンバロの音色によくマッチしていると思いませんか?

======

「藤本貴司」さんから頂戴したコメントです。
  2022年12月17日ぶん

児玉進矢さんから今年の漢字「戦」コメントがありましたので、太平洋戦争末期の頃のお話しを少しします。
数年前に昭和20年4月に東京在住(戦前我が家から少し美祢市寄りの山中に小さな炭鉱がありました、その一家族が東京の方で、終戦前に東京帰られたそうです)の方からの古いハガキが1枚出てきて「帝都の春は桜が満開です」の書き出しで始まり「戦地(中国南京方面)に行かれた○○ちゃん(私の父のこと幼なじみ名前で)元気でしょうか、便りはありますか?」云々と書いてありました。けど当時の東京は3月大空襲などで一面の焼け野原になっていたのではと思います。ハガキ文面に「焼け野原」という字句あれば軍当局の検閲で郵便物は没収されると発信者の方が「桜は満開」と書かれたのではと思います。

つい最近に片付け中に父が戦地から郵便ではなく、戦地から帰国される軍有力者の方に預けた手紙がでてきて(昭和20年冬の頃)食料事情が書かれていました「わずかな米粒のご飯は、実家で牛に与える麦より硬い麦が混ざって硬くて硬くて・・・」「暖房が全くなく、手紙を書く手が凍えて字が思うように書けない・・・」云々(これらも郵便なら検閲で届かなかったでしょう)戦地での事余り話さなかった父ですが、中国南京方面で国民党軍(現在の台湾政府樹立)配下で終戦後も武装解除されず(当時の中国は共産党軍と内線状況もあって)日本軍がいれば攻めてこないという事で日本引揚げ港で武装解除されて内地に帰還(満州方面ならシベリア抑留、軍人以外の青年も抑留され奉天医専の医学生だったおじも抑留され医師になられず)したそうです。通信隊だったそうで、前線に行く時は伝書鳩(鳩班がついて行く場合は極めて危険)を連れて行っていた。戦後は戦友部隊員の多くが電々公社や郵便局の職員になられたそうです。

少し長くなりました。ウクライナで長引く戦禍、コロナ禍等々の中ですが、平穏無事に暮らせる有り難さを噛みしめている今日この頃です。