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「藤本貴司」さんからのコメントです。 その⑭

「藤本貴司」さんからのコメントです。
  2018年12月19日~12月7日
       9月16日(ド田舎会長返信ぶん)

おはようございます。明日、明後日は下関春帆楼で竜王最終戦があります。羽生竜王が勝ってタイトル100期達成か、敗れ無冠か?ですね。羽生竜王は1996年2月マリンピア黒井(旧豊浦郡、現在合併後下関市。当時の立派なリゾートホテルはすでに廃業、羽生さんの7冠達成の大きな石碑は残っています)で7冠達成された下関市での最終戦です。羽生竜王の勝利を願っています。
最近の若い藤井棋士の活躍で多少将棋に関心はありますが、竜王戦の対戦相手の方の詳しいことは知りません。(12月19日)

こんばんは、今日お会いして お元気で何よりです。
先程までNHKテレビ会津と萩の交流を見ていました。
戊辰戦争前までは、交流があった長州と会津、今シリーズで会津藩士「秋月悌次郎」について書いています。「秋月悌次郎」は武士ですが、今で言う官房長官の仕事 と 相手方に出すお手紙の草稿の仕事、さらには様々な交渉などなど知れば知るほどすごいと思うだけです。その後、「秋月悌次郎」の 晩年の熊本第五高等中学校教授の時代、同僚として赴任した「小泉八雲」から「この世に神がいるなら目の前でニコニコ微笑んでいる方」と称賛されたそうです。(12月7日)

「藤本貴司」さん への返信。↓ (ド田舎会長より)

筆者もテレビをみながら、おかしいな!と 思っていました。坂本龍馬~お龍 そして「三吉慎蔵」に博学の貴君には、耐えられませんね!下関にかなりの証拠(滞在根拠~書状など)がありますし、幕末の歴史をかじっている方たちにとって、これは譲れませんね。今回の「大河ドラマ」NHKは、まあまあ真面目に史実に忠実?と思っていましたが、やはり、「薩長同盟」の頃から、ドラマ(作り事=物語)化が、顕著になりました。歴史に関知しない視聴者の皆さんがほとんどでしょうから、所詮 (面白い)ドラマなんですね!諦めてください。幕末から明治にかけて、(薩長が)隠し事や虚実が多いのは明白ですが、地元(長州藩)の子孫としては、少々残念ですね!「西郷隆盛」や「木戸孝允」「大久保利通」「山県有朋」そして「伊藤博文」他多数、、この明治の元勲をドラマ化するのには、無理がありますが、これも時代の流れでしょう。NHKは、これはドラマ(創作劇)ですから!と返答するでしょう。筆者は「世良修蔵」の “立ちションベン” に、呆れましたから、、、(八重の桜)や別途ドラマ「泉谷しげる」他 数々の描写あり!(9月16日)

四年前(2018年8月)のブログが面白い! その⑫

「世良修蔵」b(明治維新150年)&(戊辰戦争150年)
  2018年8月24日ぶん

「世良修蔵」について、二回目のコメントをします。長州藩士「世良修蔵」山口県大島郡椋野町(現在の周防大島町=第二奇兵隊)が「戊辰戦争」の始まりの頃、(深夜)奥羽福島の金澤屋で襲撃され、阿武隈川で斬首された。昨今、この「世良修蔵」惨殺が(歴史学者や歴史愛好家の間で)研究?~再考?されています。「世良修蔵」の人物そのものは(実際)どうだったのか? 「司馬遼太郎」や「早乙女貢」などからミソクソに書かれ、NHKテレビドラマや民放テレビなどでも、その表現には目を覆いたくなるような悪行三昧の表現であります。(長州~山口県に来てその素性なりを調べたのか?本当の「世良修蔵」はどうだったんだ!などなど)

☆「世良修蔵」長州藩士 僧月性派 第二奇兵隊(軍監)大島口の戦い 鳥羽伏見の戦い 奥羽鎮撫総督府:下参謀(実質の指揮官) 福島金澤屋で襲撃される 阿武隈川で斬首  宮城蔵王白石「陣場山」に墓所

★それはそれとして、(戊辰戦争について)ここ数年の間(歴史研究者によって)、様々な事象(新資料)が発掘(発見)されています。

①会津戦争(1868年)「市中に転がる屍(しかばね)、一年間葬ること無かれ!」、これは新政府側(特に長州藩)が言った!とされる(会津地方での)伝承ですが、→(新政府側が会津に対し、死者の埋葬を禁じていたという伝承)強烈ですね!
☆元会津若松図書館の「野口信一」氏の(会津戦争)史料研究で、(新政府による)「埋葬許可証」並びに「埋葬者一覧表」などが、会津藩士の子孫の遺品の中から発見され、(ごく最近のこと、ここ数年前)注目を浴びています。

②俗に言う「世良修蔵」の悪行三昧ですが、元柳井図書館長「谷林博」氏が、5年に渡っての(東北地方)調査により、「世良修蔵」の人物像が明らかにされて来ました(世良修蔵は ・学者タイプ、・超真面目、・インテリ だった?)。東北での聞き取り調査で、“ 世良は気の毒な人だった!” → 白石城主の末裔(片倉信光氏の弁あり)(昭和49年9月発行、歴史書「世良修蔵」による)かなり歪められた伝承となっています。
宮城県白石市福岡蔵本「陣場山」に建立されている(実に立派な)墓所(明治天皇が、東北行幸時立ち寄り 木戸孝允 献灯)、福島市舟場町「長楽寺」での150年法要=筆者参列(50年ごとの法要が行われている)、福島市宮町「福島稲荷神社(裏手)」にも、立派なお墓が建立されています。

③江戸幕府末期から明治新政府にかけて(幕末期)「孝明天皇」の崩御(35歳で急死(崩御)=天然痘? Anーsatu??)孝明天皇直筆の「会津藩城主 松平容保(かたもり)」に対して、信任状?らしき書状が発見されたこと(ごしんかん=手紙?)。その後の「王政復古の大号令」や「錦の御旗」???などとの絡み。その時期、明治天皇の年齢は(若干)16歳? 天皇→天皇の取り巻き公家の新政府寄り など、公家の主導権争い、策略?謀略などなど、新政府側のリーダー(重鎮)(西郷隆盛 大久保利通 木戸孝允 岩倉具視ほか)の・・・・?のきな臭さを感じますね!(若き「明治天皇」周辺公家の囲い込みなど、闇から闇、謎な部分が多いのです)
続く、、、、

★筆者の「世良修蔵」惨殺について
①長州藩内での権力闘争(派閥争い)⇒吉田松蔭派と僧月性派
②余りにも切れ者であった為、「捨て駒」とされた?⇒奥羽地方制圧の為(先に手を出させた→仙台藩士他 「金澤屋」襲撃は案外 予測の範囲では?
③長州人特有の言葉使いが(高圧的な言動や振る舞い などなど)封建的な東北人=武家社会を 怒らせたことは事実であろう。
④開国を急ぎ、日本全土の早期統一を考えた (新政府軍は)奥羽地方の制圧が必須であった!

A「新政府軍」⇒「幕藩体制からの離脱」新日本国家の建設
B「奥羽列藩同盟軍」⇒ 武家社会の大義を貫いた。

特に新政府軍と「仙台藩」「会津藩」「庄内藩」との戦い(戊辰戦争が拡大へして