日別アーカイブ: 2014年1月3日

お餅つき < 一の俣温泉:温泉荘 > 『人生哲学』 其の十一

★ 「一の俣温泉:温泉荘」での「お餅つき」の様子です。(お風呂に入りに行った際)偶然に居合わせました。7臼(7回)ついたとか、つきたての「おこわ」「生モチ」を頂戴しました。御存じのように、「おこわ」は蒸し上げた状態でのもち米ごはん、「生モチ」は、つき上がって、お餅に丸める前の状態のお餅ですね。

< 人生哲学 其の十一>

・筆者の幼い頃は、このような「お餅つき」は普通のこと。年末には「お飾りモチ」や「雑煮用」、2月に入ると「寒モチ」いわゆる切り餅?=「こおりモチ」と言っていた  ですね。ついたお餅の塊を入れる木箱が沢山あって、数日後に硬くなり、それをもち切り機(わら包丁)や包丁で切るのが我々子供の仕事、嫌でしたねえ!厚く切りすぎたり、薄すぎたり(今思えば実に危険な作業!)、それを和紙(使用済み=昔の大福帳綴り など)に挟んで吊るすのも子供の仕事、半端な量ではありません。裏の2階一面に(吊るし)干すのです。

・モチ粉の付いた木箱を洗うのも手伝いのひとつ、冷たい井戸水で洗うのです。他にも広い廊下(縁側)の拭き掃除(雑巾がけ)も順番制、何せ!広い~大きな長屋のような家でした(何でも150年前後経過、目の前の「中野家の長屋?部屋?倉庫?」を購入したらしい。)(現在の豊田総合支所の駐車場の1/3、手前の道路から奥の山田川まで、敷地がありましたから=巾10米以上、奥行き30米以上、、。まあ、筆者は真面目にしませんでした、、。もっぱら「風呂焚き」が専門、(なま木に)火をつけるのも技術(要領)がいります。五右衛門風呂に井戸水を入れるのも子供の仕事(バケツにて)、これが一番きつかったですねえ=当時、水道など無し。

・このような光景(もちつき)を目にしますと、ついつい、蒸したてをつまんで「つまみぐい」をする癖がでて来ます。(木材業の傍ら)当時まだ雑貨店(小さな何でも屋)をしてましたから、お手伝いさんもおられたような記憶があります。たくさん(お餅)をついて、どうしたのでしょうか?売っていたのでしょうか?(戦前は、かなり大掛かりな店だったとか!)

・現在、住んでいる我が家にも「広縁」がありますが、生まれた家の思い出がそうさせたのでしょう。それと2階が嫌でしたから、平屋にしたのです。前2階は薄暗くほとんど物置の状態、数度しか上がったことがありません。そこで、大きなガラス瓶(長さ50センチ幅25センチ以上あった)の中の「白砂糖」を見つけたのは、紛れも無く筆者であります。いわゆる「闇物資」でしょう。昭和26年頃の話です。同級生の中島暢彦君(現在、豊饒姓)だけは知っています(超悪ガキ)。それを学校に持参して、脱脂粉乳のミルク(焦げ臭くて、美味くない)に入れて、それは~~とても甘くて誰にも言いませんでしたよ!

・そう言えば、学校から帰ると、カバン(布製)?を放り投げて遊びにまっしぐら、家にいると色々用事をさせられるからでしょう。暗くなるまで帰らないことがしょっちゅうでした。これも要領が良かった?。家には勉強部屋とか勉強机などありませんから、俗に言う「りんご箱」に紙を張っていたのが机でしょうか?(小学校の4年生までは)、勉強(宿題など)はした記憶がありません。その点、兄や姉は筆者より家の用事をさせられたことになります。筆者と弟以外(兄~姉)は学年では1~2番でしたね!いわゆる「優等生」でした。
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《独り言1》お正月の二日目も無事終わり、孫たち(福岡&長府)そして隣の若社長宅の孫も全員家に帰りました。今は、実に静かで元の我が家に戻っています。家内のミツエさんは、相当にくたびれた様子、無理もありません。それぞれの嫁さんが、結構手伝ってくれて、茶碗洗いなども全てやってくれました。良く考えてみると、この騒動も全て自らのMAITA種、人間社会は実に奇妙で厳粛、何とも表現の仕様がありません。どこと無く似ているような、似ていないような、孫たちは面白いものであります。