月別アーカイブ: 2014年1月

お待たせ!我が家の「お正月」 c  『人生哲学』 其の十三

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↑ 右 7番目の孫(いとう はるい) 父:正之    左 5番目の孫(いとう まさよし)父:孝之
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↑ 真ん中 3番目の孫(いとう みゆ)父:孝之
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↑ 右 2番目の孫(うちのの りょう)母:真理  左 6番目の孫(いとう まさよし)父:孝之
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< 人生哲学 其の十三 >

(ハンドル名)「神戸姉さん」からコメントを頂いております。毎度、有り難うございます。少しばかり(貴女の)お父上の思い出に触れてみましょう。

・中学校になっても、いっこうに勉強しない筆者を見かねた母親(実際は親父さんか?)の指図にて、地元の中学校の現職(英語)教諭であったK先生の処に(勉強をしに無理やり)行かされた?のであります。当時、学習塾などは(田舎町の)周辺には皆無、また、あっても行かせる家庭は(これまた)ゼロであったでしょう。そんな地域でした。

・余りにも勉強をせず、成績も姉や兄と比較しても、話にならないレベル、(呆れて果てて)見るに見かねて(強制的に)行かされたのであります。どちらかと言えば、マンツーマンでの指導ではなく、(初めはそう思っていたのですが)ほとんどが自主勉強でした。言わば、勉強する時間と場所を提供してもらった?と言うのが本当でしょう。同じ中学校の教師の処へ勉強に行く!(今思えば)少々、宜しくない??でもありますね。まあ、問題集かドリルのようなものを、勝手にして帰る、答え合せはして頂く、その程度のこと、おおよそ学習塾ではなかったのです。

・嫌々ながら通った(同じ中学校の)先生宅、その唯一の楽しみは、奥様が出されるお菓子?や飲み物など、何となく食べ物、が狙いでもありました。それがいつの間にか、成績が上昇し始めたのですね。同級生が不思議がるほどの上がりようであります。一年生の終わりごろ、それまで30番くらいが10番くらいまで上昇、そして中学校2年になると、5番以内に突入、2学期の初め3番、そして冬休み直前には、何と!何と!78人中一番になったのです。これに一番驚いたのは筆者本人であります。今思えば、K先生(神戸姉さんのお父上)は、勉強は教えるものではなく、いかに自らがするか!いわば自らのYARU意欲(やる気)が一番大事である!との教えであったのでしょう。

・一週間に一度か二度の僅かな勉強時間(一時間足らず)が、筆者の人生を変えてしまったのであります。言わば、自らの意思で勉強すれば、成績が上がる!(この)ごく自然なことを学習(会得)?したのであります。(先生は)何時までたっても、筆者の前に来られない事が多く、ほとんどが自習同然の日々、それが最終的には、毎日(自宅にて)3時間そして深夜までもするほどの「がり勉」中学生に変身して行ったのです。中学3年生から下関市内のマンモス中学校(日新中:15クラス750人)に越境転校(これは違反でしょう?)、同級生から不思議がられていました(田舎から出てきた転校生が)進学校(難関:下関西高)を目指したからです。筆者の人生の「一大転機」!そのきっかけが「神戸姉」さんの「お父上」だったのです。

< 割烹料亭「鉢の木」で結納をされた!ことは勿論、貴女や弟さん(お二人)のことは、ほとんど存じませんでした。(弟さんが二人とも「下関西」~「九州大学」に進学されたことは、かすかに聞いていましたが、、。)(筆者が社会人になってからですが)お父上のお住まい(確か?後田町?)を訪ねて行ったことがあります。お車を買っていただいていましたから、、(それと)筆者が34歳前後の頃、林内科に入院の折(大腸炎)お見舞いに来ていただきました。記憶にあるのは、残念ながらkowai~kibisiiイメージだけでした!お父上のegaoは覚えていないのです) >

お待たせ!我が家のお正月 b  『人生哲学』 其の十二 

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↑ 筆者8番目の孫 「いとう よしなり」 ギリギリが二つ(筆者も二つ)父:孝之
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↑ 筆者、5番目の孫(いとう りんたろう)父:正之
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↑ 真ん中 4番目の孫(うちのの しょうま) 母:真理
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《独り言》 先ほど22時過ぎ、帰宅しました。18:15より、東京海上日動火災保険㈱下関支社 第4回「モーター代理店」の、研鑽会~懇親会に参加していたのです。(東京第一ホテル下関 3F桜の間)代理店17社(22名)社員14名 山口支店から「京極常子」支店長も参加されました。後日、スナップなどお送りします。

< 人生哲学 其の十二 >

この「東京第一ホテル下関」ですが、この土地所在地には、懐かしくもあり、また、iyana記憶もあり、複雑な気持ちになるのです。前にもコメントしておりますが、ここには親父さんの姉(辻チヨ)の実家(高級割烹料亭 鉢の木)があったところなんです。料亭の建築は戦前でしょうが、筆者が最初に訪れた(遊びに行った)のは、(一番上のスナップ)ちょうど8番目の孫のあたり、3歳~4歳の頃の記憶があるのです。それは、鮮明に覚えていますが、誰か?と幼児用の三輪車で「唐戸埠頭」現在のカモンワーフ  まで行き、その埠頭で三輪車と共に、海に落ちそうになったのです。どういうわけか?落ちる瞬間(少し下っている=坂になっている)三輪車から飛び降りて、事なきを得た!という、嘘みたいなホントの話を、実に鮮明に記憶しているのです。その三輪車は、大人の人が(海から)拾い上げてくれたまで記憶しているのです。昭和23年か24年の(かなり昔の)話ですね。

・筆者の母親が最初に産んだ「長姉」辻洋子は、ここに養女に出され(生後まもなく、産んだ母親の承諾も無く)アト二人の姉は、ここの地下の部屋に下宿、(三人の姉は)梅光女学院高校へ通ったのです。毎年のようにここ(料亭 鉢の木)に遊びに行き(夏休みなど)泊まったのを覚えています。現在の価値で言えば数億円は軽くかかるであろう?地上2階地下3階の大きな建物(和風)であり、豊田町の石材(崋山石)をふんだんに使い(現在は違反)材木も豊田から(これまた)ふんだんに使った大きな建物でありました。

・地名を「稲荷町」と言い、はるか江戸時代末期には「大阪屋」と言った「妓楼」があった処、当時の自分は知るよしもなく、その後(丁重なるsagiにあって)今日を迎えているのです(念のため、東京第一ホテルとは、関係ありません)。昭和の56年頃まで??「割烹料亭 鉢の木」はありましたねえ!毎回、コメントでおなじみの takashi君 と奥様とを、厳重に説諭!(結婚の決断を促した!)場所でもあります。(筆者35歳 初めての仲人でありました。)家主(経営者)の叔母には(当時主人は既に亡く)やりての大女将であったようです。相続財産(土地~畑など)筆者2歳の時に、既に筆者名義にしていたと言う、想像できない?これも「先見の明」?と言うんでしょうか?現在でもその土地の一部は、弊社のスクラップ置き場として、重宝し活躍しています。