「後山邦秋」さんからのコメントです。 その⑩

「後山邦秋」さんからのコメントです。
  2020年11月12日~11日~08日

私の祖父母と母も「引き揚げ者」だと聞かされました。センザキッチンに行った時に、この場所から祖国に帰って来たんだ!と感無量でした。、(私ごときには)想像もつかないような苦労をしたようです。戦争のない平和な世界の尊さを、今更ながら染々感じます。
ガラケイの意味知りませんでした。最近(とうとう)スマホにしました。まだ上手くいかなくて悪戦苦闘の毎日です。使いこなせるように頑張ります、、、、(11月12日)

会長の浸けたらっきょうが、そろそろ琥珀色に輝いて来ました。私は勿論の事、うちのメンバー毎年心待ちにしています。何のお返しも出来ませんが、、会長の真心をしっかり感じつつ、尺八の鍛錬に励んでおります。メンバーを代表して会長はじめスタッフの皆さんに、心から感謝のエールを送らせて頂きます。ありがとう御座います。(11月11日)

ブログ再開!!楽しみが一つ増えました。人生詰まる所、やはり「生老病死」ですよね。何人たりとも、この現実から逃れることは できませんね。この大宇宙を貫く法則が、確実に存在してるような思いがします。早くそのことに気がつけば、この世に生を受けた意味も分かる様な気がする今日この頃です。今日は久し振りに、「徒然草」読みました。“栄冠は君に輝く” はBフラットでお願いします。(11月08日)

2 thoughts on “「後山邦秋」さんからのコメントです。 その⑩

  1. 後山邦秋

    今夜は「中秋の名月」と「満月」が重なり、数十年に一度の素敵な夜空になりました。尺八の名曲には、月を題材にした曲が かずえきれないくらい有ります。「月草の夢」~「月の雫」~「月の沙漠」などなど、月と人間も密接な関係に有りますね。今夜のこの月を、信長や秀吉~家康も見ていたと思うと、悠久の時の流れの中で 生きているんだと実感します。会長と一緒に作り上げたライブの裏話など、コメントさせて頂こうと思っていたのですが、今夜の月を見ると何か新たなエネルギーを感じて、(現在)作曲に専念しています。今しか出来ない事を今やる!それが生きると言うことかも知れません。今感じたことをコメントさせて頂く、、と言うスタイルで取り組ませて頂きたいと思っています。

    話しはガラリと変わりますが、会長の “演奏スタイル” は、ジャズの本場 米国「ニューオリンズ」の街角で、好きな曲~弾きたい曲を楽譜なしで、楽しそうに弾いてる黒人演奏者達を連想させます。勿論、音楽を本格的にやった事など無い人達ですから、楽譜は読めないだから楽譜は必要ない!でも聴く人の魂に語りかける。音は魂の言葉だと私は思います。「言霊」と言う言葉が有るように、「音魂」と言う言葉があってもいいんじゃ無いでしょうか?音楽はテクニックだけじゃない!音はその人そのもの、だからこそ、自身の内面世界を耕し磨かなければ感動して頂く事などあり得ません。ひたすら、精進有るのみです。

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  2. 藤本貴司

    後山師匠へ
    「引揚げ港・仙崎港」のお話しさせていただきます。

    仙崎は、戦後初めての大陸(韓国)から引揚げされる方々が帰国された地です。仙崎の青海大橋近くの波止場に大きな記念碑があります。
    終戦時国内の主要港湾は、米軍により機雷封鎖されている中、仙崎は封鎖されてはいませんでしたが、当時の引揚げ船「興安丸」(約7000トン-定員1746人)のような大きな船は着岸出来ないため、「興安丸」は深川湾沖合に停泊して小船で乗員を仙崎まで運んでいたそうです。
    「興安丸」には定員の3~4倍の5千人~7千人が乗船、大変な中での引揚げですね。

    2年前の秋(2020年11月)長門市歴史資料館で『引揚げ船興安丸から75年』という歴史資料展示があり、義母(92歳)が昭和20年11月から翌年春まで、引揚げ船の救護所(仙崎の大きなお寺 極楽寺)で日赤看護婦をしていたことから資料展に出かけました。
    資料館の職員の方は 今回の展示期間に救護所勤務関係者が初めて来られたと話されていました。また沖合停泊の「興安丸」まで救護所看護婦が小船で行き「興安丸」に乗船して具合の悪い人はないだろうかと確認していたそうです。
    引揚げ後、ふるさとに帰られる人達の荷車を押して仙崎駅まで見送り行っていた、救護所の「極楽寺」の奥さんがとても面倒見のよい方で、救護所勤務が辛くはなかったと資料館職員に話していました。

    ロシアのウクライナ侵攻で混沌した世界情勢、戦争の無い平和な世界の尊さ、有り難さをこれからも大事にしていきたいものです。

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