「藤本貴司」さんからのコメントです。 その⑮

「藤本貴司」さんからのコメントです。
  2018年9月16日~9月10日~9月4日

読売新聞「維新150年シリーズ」今日からの士族反乱を通しての武士の終焉を考える、云々、、。これから「佐賀の乱」以降、各地の乱を、最後は西郷さんの「西南戦争」でしょうね。
西郷さんについてはふれません。
しばし、会津の方と前原一誠のつながりなど調べたことはふれてみたいと思っています。

今、西郷ドン見ています。
超有名な脚本かで小説家のストーリーですが、完全にドラマです。龍馬暗殺後にお龍さんが京都で西郷さんに抗議シーンです。これはないです。
この頃、お龍さんは長州ですからね、しかも長府在住です。
これ以上、このドラマのコメントはしません。(9月16日)

こんにちは、「感謝祭」ごちそうになりました。ありがとうございました。猪肉焼肉、猪鍋、焼そば食べ放題。その上「獺祭」、「東洋美人」、生ビール飲み放題で大満足でした。
さて、会長さん!自家用車で鹿と激突、お見舞い申し上げます。多くの方が車走行中、“鹿と激突“ の話を聞いてはいましたが、2年前、自分も横藪から飛び出して来た鹿と激突、車修理代約50万円です。トホホですが車両保険でカバー、お陰で保険料は高くなりました。(9月10日)

9月4日山口は平穏な1日でしたが、台風直撃の地域の方々にお見舞い申し上げます。
さて、とても驚きました、関西空港が水没そして連絡橋が大破です。これは国あげて対策が必要と思います。
このような中、まずはこれらの対策に関係の方々大変と思います。どうぞ気を付けて対策に当たって頂くようお願いします。
(9月4日)

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↓「藤本貴司」さんから頂戴したコメントです。2022年9月24日ぶん

コメント掲載ありがとうございます。
昨日のブログ「世良修蔵」に対する歴史本のコキオロシを少し書きました。
超有名な大佛次郎の「天皇の世紀」では「農漁民のコセガレが・・・指揮官などと・・」奥羽鎮撫総督府 下参謀の世良をかなり悪者扱いした文章だったと覚えています。
「世良修蔵」は秀才で兵法に精通、交渉力もあったそうです。世良は、西郷隆盛でも説得できなかった「有栖川宮 熾仁親王」 を説得しました。(東征大総督)
  
◎「有栖川宮 熾仁親王」(ありすがわのみや たるひとしんのう)
天保6-明治28(1835-1895)。皇族、政治家、軍人。17歳のときに当時6歳の皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は「公武合体」の目的で14代将軍家茂と結婚させられてしまいます。熾仁親王が反幕府・尊王攘夷派となったのは、この婚約破棄がきっかけとも言われています。国事御用掛に任命されましたが、禁門の変ののち失脚。王政復古後は新政府の総裁となり、戊辰戦争では東征大総督に就任して、江戸城を無血開城させた、、、
◎皇女和宮
和宮親子内親王(かずのみやちかこ ないしんのう)は、弘化三年(1846年)に仁孝(にんこう)天皇の第八皇女として生まれた。十五人兄弟の末っ子で、成人したのは兄の孝明(こうめい)天皇(明治天皇の父)と姉の敏宮(ときのみや)の三人だけです。
  6歳の時、11歳年上の有栖川宮熾仁親王(ありすがわ たるひとしんのう)と婚約したが、和宮15歳の時、幕府から朝廷に対して「十四代将軍徳川家茂へ降嫁を請う」(公武合体)と執拗な申し出があり、婚約を解消し承諾するに至った。和宮16歳の時、文久元年(1861年)10月20日に中山道を江戸に下った。

「桂太郎」州藩隊長で従軍記では、、(戊辰戦争当時20歳の「桂太郎」(後に内閣総理大臣)
仙台藩は旗持ち、槍持ち、鎧兜の旧態兵法で双方の言語困難もあって、十分な意思疎通ができなかった 云々、、、、

2018年5月19日付 読売新聞「維新150年・戊辰哀悼、世良修蔵 特集」で「世良が暗殺されて官軍は戦争の全責任を負わせた・・・・150年経過した今も 悪名を一身に受けている。彼が明治まで生きたなら、どんな人生を送っただろうか?」と掲載されていたと記憶していますが、、、、

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