「長門ポッポ」(記憶から)

「長門ポッポ」について、コメントしてみましょう。既にご存じのように、「長門ポッポ」とは、下関市小月駅ー下関市豊田町矢田 (大正時代の開設当初 豊浦郡小月村ー豊浦郡西市村)小月ー西市間 を走っていた「長門鉄道」 C型蒸気機関車 のことですね(ちょっと小さい)。自分の記憶では、数回は確実に乗車しています。昭和31年に廃線と言いますから、小学校5年生の頃には無くなった!という事になります。現在、このアメリカ・ポーター社製 C型蒸気機関車を(京都府加悦SL広場 鉄道記念広場より 無償譲り受け  国鉄1045形)移設(里帰り)の為、多くの有志の皆さんが活躍されています。→長門ポッポを守る会 道の駅「蛍街道西ノ市」内

現在の「豊田梨(なし)選果場」周辺が「西市駅」の停車場、駅舎や線路など結構広い感じ、勝手に線路内に入っては遊んでいました。駅の前に(大きな)旅館、松田モト女史が経営しておられた「松田屋」旅館、がありました。(松田教育財団の創設者)→西市農林学校の設立者(その後 県立 西市高等学校となる)2階に上がる階段は、幅が3㍍くらいあって、螺旋(らせん)階段でした。

強く覚えているのは、矢田の「大木素子」先生(代用教員なので、20歳前後?か)と、同級生 十数名、この「長門鉄道」に乗って「西中山」停留所まで行きました、、、目の前の河原で遊んだことを思い出します。石投げ(平べったい石を水面に、、)をしたり、お弁当?も食べたかも?ここは「西中山=岡枝 校区」、越境遠足で(確実に)校内規則違反でしょう。

☆『同級生』 田村拓也 渡邊和子 福岡恭輔 千葉武彦 木曽茂也 中島暢彦 宮田貞子 金田信子 吉村昌子   村川敏子 藤永睦弘 山名秀夫? 福井幸男  田坂礼子 西村槇子 野村正和? 小林正一? 藤田吉市? 田中喜代子? 岡村春樹  村野百合子? 石田加代子? 三村匡?  岡本幸慈  田坂菅子?  磯田芳子?    他 多数 ●昭和27年~28年頃?のことです。(参考まで 記憶があいまい)

そうそう一番の話ですが、自分の叔母ちゃん 下関在住で「鉢の木」という高級料亭を経営していたのですが(木造3階建、大きなお風呂の真下には(池があり)底が ぶ厚いガラス張り、その叔母ちゃん の ことを実の母親のように思っていて(6人兄弟姉妹のなかで)自分がイチバン可愛がられていたそうです。(実子がいなかったので、一番上の姉を養女にしていた)肝心なことは、その叔母ちゃんのことを「ポッポ母ちゃん」といつも言っていたそうです。

下関の赤間町(稲荷町)まで良く行っていたようで、お手伝いさん(名前忘れました 二人いた若 いほう)に連れられて会いに、、、。自分のお袋さんは、子供をたくさん産んで 結果8人(当時伏せてばかり)その頃、「肋膜炎」を患っており、自分が飲める乳は出なくて、そんな環境からか「ポッポ母ちゃん」に向かったようです。当時の家業は「雑貨商」と材木業(原木買い付け)、結構あわただしいアキンドの家庭でした。まあ、そんな按配で(自分にとって)この「長門ポッポ」は、格別な思い出があったのです。→原木は大型トラックで運んだようです。写真がありました。

実兄(伊藤修二)が会長となり(長門ポッポを守る会)が発足した当初から、そのことが耳に入り、即座に片手を大きく広げて これだけ約束しましょう!(気持ちが大事なのですが、仕方がありません 困った性格です) 即座に寄付(山口銀行へ振り込み)したのは「ド田舎会長」であります。今の処、マラソンで言うところの、先頭集団を走っているはずです。(これは爆笑もの、ポッポ母ちゃんへのプレゼント=想い でもあるからです。)

☆余談ですが、この「ポッポ母ちゃん」は、(遺産相続された)土地数ヶ所を「ド田舎会長」に生前贈与していたのです。自分が3歳の頃、すでに名義が代わっていたようです。・「スクラップ置き場」と・「生(しょう)の田」現在の S邸 の土地それぞれ300坪前後 生まれてすぐに 土地持ちです!

2 thoughts on “「長門ポッポ」(記憶から)

  1. 藤本貴司

    おはようございます。「ポッポ里帰り募金」開始当初に「片手寄付する人もいる」とのお話は聞いていましたが、会長だったんですね。私も街中で知り合いの年配の方から「小学生の時ポッポで潮干狩りに行くなどとてもお世話になった、ちゃんと準備して封筒にお金を入れている、隣の方も準備されている。何処に持って行けばよいの」と尋ねられ「事務局が道の駅なのでそこに持って行ってね」とあちこちで浄財を出そうという声が聞かれます。多分目標は十分達成するでしょう。私は年配の方の金額(聞いたわけではありませんが本人が、封筒の金額をいくら、、とお話された)と同額寄付です。会長の50分の1ですが気持ちだけです。

    ポッポは私が小学校入学前年に廃止なので3~5才頃に乗車したかすかな記憶があります、当時の乗用車はバタンコの荷台か、馬車荷台、車力荷台で道路は未舗装デコボコ道かヌカルミ道なので、ガタンゴトンで荷台から落ちないようにしがみついていました。ポッポは時速30キロが最高速度だったようですが、スーと滑るような景色がどんどん変わるというかすかな記憶が今でも脳裏に残っています。「ポッポ里帰り」が関係の皆様方のご尽力で進んでいます。ポッポー

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  2. 中村久恒

    「長門ポッポ」懐かしい名前です、今日 聞こうとは思っていませんでした。
    思えば私も一度だけ「小月」→「西市」に乗車した思い出があります。私は昭和27年5月1日付で今は無い中電「仙崎営業所」に入社しました。昭和28年、国家試験受験のため「広島」に行った帰り西市、高熊?に在住の「歌嶋」さんと小月から乗車しました。かわいらしい汽車だったと記憶にあります。西市を散策しても当時の線路、駅舎がどこにあったか皆目不明です。ただ西市に向かう途中、川の岸を走ったことをウロオボエに記憶しています。有難うございました。

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