ゴミ拾い(退治)の “真髄” とは!

《独り言》前にも触れたことがありますが、ゴミ拾い(退治)のことですね。数日前、ゴミ拾いの同志でもある「中野哲行」君が来社、その際、ある相談を持ちかけられました。(元:下関市役所豊田総合支所長)
いつも(特に)地元:豊田中地区をテリトリー(清掃行動範囲)とされていますが、「ねずみ坂」=鼠坂 において、決まった場所に決まった空き缶が(毎度~毎度)捨てられている!捨てた人は同じと思われるが、どうにか?なりませんかねえ!と言う趣旨の相談でした。

・ゴミをポイ捨てする行動は「(反)道徳的」であり、究極は当事者の自覚の問題であります。大きく言えば「人間教育」の根本理念の範疇かも知れません。筆者の回答は、ゴミを捨てた人を見つけたりすることは、ゴミ拾いをする我々とは次元が異なる話ではないでしょうか!言わば、我々のゴミ拾いは、そこにゴミが落ちているから拾うのであって、捨てた人を云々するのは意味が違ってくるのです!と、、、ゴミ拾いは、自分自身の気持ちの持ちようで、世の中を綺麗にする!ただそれだけの行動で良いのでは!言わば「自らの心の拠りどころ」とも言えますし、宗教哲学そのものの一部分であると自覚しています!と、、筆者は回答したのです。それでも(極論から言えば) “そこにゴミが落ちているから拾うだけ!” の単純なアクションですね、これが簡単には(中々)出来ません。

・筆者が(日頃から)良く言っている言葉があります。妙な話ですが、“ あなたはゴミと話が出来ますか?” いわゆるゴミとの会話ですね。ゴミが声をかけてくる!拾って欲しいと、、そして多くのゴミ集団たちが(こちらに対して)拍手をしてくれているような気持ちになる、、、そのような心持で行動すれば、ゴミ拾いも実に楽しく、素晴らしい“ 趣味 ” & “ 道楽 ”の一部にもなるのです。地球の誕生(いやいや)宇宙の源に遡(さかのぼ)れば、人間もゴミも(言わば)元素=気体そのもの  声を出さない?それは当然、血が通って無くとも、究極の源(みなもと)は同じですからね!これは、こじつけ?でしょうねえ?(大爆笑)

 

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