神功皇后神社=じんぐうこうごうじんじゃ(美祢市西厚保町) b

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★ 神功皇后神社(じんぐうこうごうじんじゃ)
祭神 (主祭神)息長帯姫命 足仲彦尊 誉田別命 大鷦鷯命 住吉仲皇子
由緒沿革
室町時代の応永三十二年(1425)、豊浦郷(現下関市)忌宮神社より勧請。永享二年(1430)、源義秀が社領を寄進する。
宝徳二年(1450)、天文十一年(1542)、安土桃山時代の天正十三年(1585)、修築をする。
当地の地名は、往昔は集村(あつめむら)と称し、転じて厚保(あつ)村となる。神功皇后が三韓出兵の際、この地にて兵を集め、また万一に備えて壕を掘り、堅固な守備施設を設けたという伝承がある。 忌宮より勧請以前に、当地に八幡宮を祀っていたが、皇后の偉徳を仰慕して神功皇后神社と称する。明治六年(1873)郷社に列する。(ネットより)

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★忌宮神社は、城下町長府の中央部に位置し、仲哀天皇が西国平定のためこの地に豊浦宮を設けられた跡といわれ、現在の神域がほぼ長門国庁の所在地に推定されています。祭神は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇が祀られています。正面参道を進んでいくと、仲哀天皇が熊襲との戦いで、天皇が倒した首領の首をここに埋めたとされる鬼石があります。祭礼では、毎年8月7日~13日にかけて鬼石の周りを踊りまわる幟舞、一般には数方庭が奇祭として有名です。(ネットより)

 

★神道政治連盟(略称・神政連)は、世界に誇る日本の文化・ 伝統を後世に正しく伝えることを目的に、昭和44年に結成された団体です。 戦後の日本は、経済発展によって物質的には豊かになりましたが、 その反面、精神的な価値よりも金銭的な価値が優先される風潮や、 思い遣りやいたわりの心を欠く個人主義的な傾向が強まり、 今日では多くの問題を抱えるようになりました。 神政連は、日本らしさ、日本人らしさが 忘れられつつある今の時代に、 戦後おろそかにされてきた精神的な価値の大切さを訴え、 私たちが生まれたこの国に自信と誇りを取り戻すために、 さまざまな国民運動に取り組んでいます。(ネットより)

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《独り言》 筆者は、「神社」や「お宮」のことについては、ほとんど素人です。正確を記す為には、ネットからの転載の方が、正確だと思います。敢えて、載せています。ご容赦下さい。「宮崎義敬」さんと話をしていますと、思想とか心情とか超越して、同じ「豊浦郡」で生を受けた者として、妙な一体感を感じますね。会話の中には、政治や宗教の話は(それほど)出ませんねえ!それこそ、(阿川での)少年時代のこと、両親のこと(故郷のこと)、学生時代のこと(貧乏学生時代=國學院大學)などなど、抱腹絶頂?では失礼ですが、懇談していますと、(毎回)時間が経つのを忘れます。「後山邦秋」師匠のご縁で、会話の中に入ることが出来ました。ご高齢なので心配ですが、チャンスがあれば、何度でもお話を聞きたいと思っています

1 thought on “神功皇后神社=じんぐうこうごうじんじゃ(美祢市西厚保町) b

  1. takashi

    一昨日、約40年ぶりに宮崎先生とお会いすることができました。
    山口県連合青年団主催の「山口県青年の船」での一参加青年と講師先生であった宮崎先生との出会い以来です。しばし青年の船の思い出話も(船室が古川薫先生と同室であった、当時県立女子大の上野さちこ、福田百合子両教授も講師団として乗船、マニラからの帰路バシー海峡で大しけに遭遇ほとんどが船酔いしたことなどなど)。
    お話をしている端々から人をひきつける何か(オーラ)を感じたひと時でした。

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