月別アーカイブ: 2014年10月

阿川八幡宮  b

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★「わたしの海」(宮崎義敬:作詞) ↓ 「阿川八幡宮」の境内に(歌詞の)石碑がありました。

一、潮の満ちくる渚の砂を 踏んで走った幼いころが 足の裏からよみがえる  膝まで漬かれば 小魚が群れて 遊んでいるようで 群れて遊んでいるようで癒してくれた その海に わたしはいまも逢いに行く

二、暮れゆく浜に佇(たたず)みながら 夕日に沈んだ沖を見る 「父さんの舟 帰らぬか」 気づかう母の横顔に くらしの疲れにじんでた 一緒に耐えたあのころを包んでくれたその海に わたしはいまも逢いに行く

三、岩場の波の砕ける日には 打ち寄せられたワカメを拾い 夏はハマグリ掘っていた
貧しいけれど温もりを 感じながらに生き抜いた そんな時代の厳しさを忘れさせないその海に  わたしはいまも逢いに行く
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『わたしの海』を読んで  (ネットから)

照沼好文 ↓ (広島:住吉神社 月刊 「すみよし」 著者)

先般、畏友宮崎義敬氏から、高著『わたしの海』が贈られてきた。今年は丁度、神道政治連盟結成四十周年に当る歳であるので、この結成四十周年の記念式典を最後に、平成十年六月以来、四期十二年間にわたる神政連会長の要職を退くつもりだと、兼々語っていたが、この『わたしの海』を手にして、改めて同氏の斬界への貢献と、その活躍にただ低頭し、敬を表するしだいである。

早速、『わたしの海』を開いてみると、本書の前半には、「わたしの海」「島に咲く花」「群青の海」「こぼればなし」「里山の子守唄」「花恋えば」等の著者自作の詩が収められ、これらの詩の前後には、詩に纏わる山口の日本海に面した海辺の著者の産土と、そこに育った生立とが、詩の詞書のように、著者の豊かな慈眼に充ちた言葉で綴られている。

例えば、冒頭の「わたしの海」には、本書の標題にもなっているが、特に社家に育った著者は、昭和十八年(さきの大戦中)に尊父が四十四歳で帰幽され、当時三十六歳の母堂は中学(旧制)二年の兄をかしらに六人の子供を育てながらお宮を守った。兄や姉は、当時軍需工場に学徒動員で勤労奉仕に出ていたので、著者は小学二年生のときから、お宮の日供祭をはじめ神事に奉仕したという。母堂に読み下しの祝詞を書いて頂き、「父の古装束を小さく仕立て直してもらったのを風呂敷に包んで、あちこちの集落へも出かけ」て行ったと。その母堂が百歳を迎えたとき、母堂の戦中・戦後のご苦労に対する感謝と、長寿を祝って母への贈物を兄弟で考えた。そのことを母にいうと、「この年になって何も欲しいものは無いし、祝い事をしてもらわなくてもいい」というので、著者は心の贈物と思って、幼少のころを回想しながら「わたしの海」を作った。この詩を母に見せると、母は「この通りだったね」と満足そうに頷いてくれたという。

このように、本書の前半には、著者の育った豊饒な海の香りと、その折々の著者の回想が心温まる文章となって綴られている。

しかし、社家に育ち戦中・戦後に多くの辛酸を嘗めた著者の実体験は、著者の大切な人間形成の上で、大きな糧となっていることは間違いない。例えば、本書中の「社家の子弟教育」(一四四頁)を見れば、「社家には社家の伝統があり、早くから神さまに近づけ、氏子に接する機会をつくって」子弟を躾け、青年期に悩むようなことがあっても、それを乗り切れるように、早くから「心の止まり木は与えておかなくてはならない」などの説得力ある論説が窺える。

だが、本書の圧巻は、著者が神政連会長の任期中に直面した神道、神社界の抱える今日的問題に対する論評、或いは目下急務の具体的な時務策等である。例えば、著者は今日における急速な農村の過疎化、高齢化によって、所謂「限界集落」といわれる地方における神社の維持基盤の揺らぎつつある現状を深刻に指摘すると同時に、とくに日本の農耕、稲作は、単なる生産性や経済性の問題、環境問題としての視点からばかりでなく、「農は国の大本」として、わが民族性を培ってきた米の文化の歴史、伝統を守り、農耕神事の維持発展のための具体策について、著者は声を大にして強調している。(二一六頁―二一七頁)

いま、著者の生涯を収縮した『わたしの海』一巻を読み終って、なお著者と対話しているような親しさを覚える。幼い日の思い出には、感情移入して聞き入り、青年期の心情にはそれなりのロマン豊かな詩に共感を覚え、またそれらを糧として一筋に神に奉仕され、その上神政連会長の重責を、永年にわたって果された。それらが卓抜の文章力で頁を満たし、どの項目にも、活々と今尚若い青年の気概が読み取れる。この一巻を百五歳の母堂が読まれたならば、いかほど悦ばれることか。この一巻は、様々な海波を越えられた母堂への何よりの贈物であり、宝であろう。

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《独り言》美祢市西厚保本郷に「神功皇后神社」がありますが、ここにお住まいの「宮崎義敬」(元)宮司 のお生まれは、下関市豊北町阿川(旧:豊浦郡)の宮司の次男であります。筆者が存じ上げたのは最近のことですが、一貫して出てくること、それは生まれ育った「阿川」での日々や「阿川八幡宮」でのことでした。幼くして父を亡くされ、(貧苦~辛苦の極みで)苦労された「お母様」を助けて、小学校の頃から18歳まで、神社のお手伝いをされたそうです。それと、「豊北町阿川」は、日本海に面しており、浜辺で遊んだり、海で魚や貝を取ったり、お話の中に(かならず)出てきます。最近でも(一人乗りの)小舟に乗っての海釣りが唯一の楽しみであり、自分を待っていてくれる「カモメ」がいるとのことです。

・「神道政治連盟」の幹事長や会長を永くしておられても(公職)、そのことには余り触れられず、自分の育った「阿川」のこと、特にお母様のこと、海のことなどが繰り返し語られます。歌手の「Baru」さんへ「歌詞」を託し、その詩の中には故郷(ふるさと)への望郷の念がほとばしっています。そう言えば「政治家との折衝話」や「美祢市西厚保」のこと、宮司を勤められた「忌宮神社」での話題は(それほど)出ませんでしたねえ!故郷への想いは、人一倍強烈なんでしょう。筆者は非常に共感を覚えました。

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↓ 「Baru」さんのサイトから
< 宮﨑 義敬 (みやざき よしのり)さんの言葉 >

日本最西端の沖縄の与那国島へは三度出かけた。新宿のデパートの沖縄物産展でクバの葉細工を実演中の、池間 苗さんとの出会いがきっかけで「 群青の海」 が生まれた。「島に咲く花」は、山口県の西北端に位置する角島(つのしま)の四季を織り込んだもので平成十二年 十一月 三日の角島大橋 (約1800メートル) の開通式には、この歌に踊りを振り付けて披露された。母の百歳の記念に贈った「 わたしの海」は幼少の頃への回想にほかならない。戦時、戦後の厳しい時代を共に生きた感慨は深く、貧しさの中にも心の豊かさがあって親子の絆も深かった。過疎化と高齢化の進む地域社会へ思いを寄せたのが「花恋えば」で、赤い実とは藪柑子(やぶこうじ)のことである。限界集落という言葉まで生まれて、この先、日本の農山漁村はどうなるのだろうかと気遣われる。Baruさんのために書いた「里山の子守唄」は、誰もが知る子守唄とはひと味違うものになっているが、現代の子供たちの情緒の安定のためにも子守唄の復活をみんなで考えたい。