日別アーカイブ: 2013年6月28日

 (矢野徳夫さん、エピソード)②

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《独り言》長者三代続かず!と言うことわざがありますが、矢野さんの家庭もそのような感じでありましょう。父方・母方のどちらも、かなりの裕福なご先祖さんですが、結果的に全てが無くなっております。矢野徳夫さんは、下関市西南部町の回船問屋(その後、船具問屋)に婿養子、矢野千恵子と結婚。矢野さんの話によりますと、相続した財産は、おおよそ/??億円くらい、すべて無くなった!と豪語しておられましたねえ。一つはお酒三昧に消えた!それから、保証人になって土地を取られた!などなど、人のいい善良な「いいとこの坊ちゃん」だったのでしょうか?

< 世良修蔵→兄が中司八郎右衛門→世良徳壽(中司徳壽)京都大卒 (第百十国立銀行:頭取)その後、明治天皇から勲章を受ける 国会議員 →世良恒吉(北九州市若松 ほとんど情報なし、)→その4男が世良徳夫(下関市矢野家へ婿養子、ほぼ財産を食いつぶす)=筆者がとても懇意にしていただいた方→矢野公皓(東京都町田市 ・・・の土地に・・・の豪邸)

・一応「疎開」と言うことですが、(終戦後)豊田町の知り合い(その中には‘松田モト女史’も入っている)を頼ってこの地に住むこととなりました。最初は現在の豊田中央病院の裏あたり、当時から養鶏をしていたとか?その後、(松尾ヶ原)開拓団の一員として、楢原地区の中畑の地に居を構えたもの。筆者とのお付き合いはその後、地元に定着して、生活(養鶏や栗栽培やシキミ(樒)栽培が、順調に行っている頃であります。矢野さんの風貌ですが、頭髪は銀髪のオールドバック、それを肩近くまで伸ばして、ポマード(資生堂系か?)をいつもこってり付けておられましたねえ。何でも、お風呂に入っても(めったに)洗髪せず、床屋にも行ったことが無い!とこれまた豪語しておられました。実は、軽トラックの商いで、下取りを取るわけですが、余りにもその匂い(ポマード系)がひどく、中古車として売ることが不可能だった!結果弊社は大損した記憶がありますね。笑い

・色々なことを教えてもらいました。まず一つは、おなじ栗でも、どうやれば大きく作れるか?シキミもどうすれば人より高値で売れるか?野生ザルの撃退法は?高価なエビネ蘭を育てるには?家訓として、使っちゃあいけない言葉とは?そんな話に筆者は夢中になりました。全ての栽培した作物・花木など、超几帳面に数量や売り上げ代金など、何冊ものノートを見せて頂きました。このことが(数年後)、矢野家に思いもしない財産をもたらすことになろうとは?このときは全く予期もしないことであります。 明日に続く、、、、