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ド田舎会長「人生哲学」 7

2013年12月10日ぶん

・自分の過去の生き様をコメントする際、やはりこれも「人生哲学」の一種、ナンバーをつけてみました。あくまでも真実のまま、赤裸々に綴ってみたいと思っています。大学在学中のことについて、言えないことも経験しておりますが(少々割愛)、就職活動もせず、そのままバイト先に居座り、卒業後1ヶ月目(5月)には、郷里に帰っていました。言わば早々と落ちこぼれ、挫折?家に帰ると両親から歓迎されました。両親はそれまでの木材業を閉じ、新たな事業(家業)として、自動車整備工場を建て、既に2年ばかり経過していたのです(二人の子供のために、、、、)。当時人口は1万人くらい、自動車工場は2~3社、後発の整備工場でした。ディーラーの営業所(山口マツダと下関ダイハツ=当時)を含めると、過当競争の真っ最中でもあります。当時の会社は整備士は3名、営業は(ほぼ道楽?的)親父さんとお袋さんがやっていました。二つ違いの弟が「日野自動車:下関営」=デーラーに修行中、そこへ突然?筆者が舞い戻って来たのです。親父さんは、さぞかし嬉しかったでしょう!それが、数年後、「勘当」されるHAMEになろうとは?まだ、夢思わない時期でありました。

・22歳で帰郷、 24歳で結婚、弟が家出⇒3年間の放浪 筆者25歳で勘当(家出)すぐ舞い戻り 30歳までに3人の子持ちとなる。32歳の時、親父さんは狩猟事故でSokusi,33歳の時「民間車検整備工場」を認可取得。 同年、45坪の家を新築、昭和で言うと、53~54年頃のことですね。57年、Y火災海上保険㈱(現在のS/J)当時の担当者(塩田宏昭君)と意気投合、5年満期の積立傷害保険を(2~3ヶ月で)200件以上契約、損害保険に目覚めたのです。昭和63年 wake あって、(当時の)東京海上火災保険㈱と乗合い契約、新たな事業展開(自動車関連と損害保険との二本建て)がスタートするのです。(昭和42年~昭和63年頃の話です。)

・帰郷した当初から、新車を良く売りましたねえ!まだまだ乗用車(1000cc以上)が(あまり)売れない頃、軽四の「ハイゼット」「フエロー」=ダイハツ車 年間100台を軽く売りました!山口ダイハツ販売㈱のサブディーラーとして、この田舎にて、最高記録は126台(年間)でありました(伝説:1月10日までの年初に10台契約したこと)。(但し、利益は少ないのです。)ご褒美は毎年春の海外旅行であります。行きましたねえ!台湾 香港・マカオ 韓国(ソウルーケイシュウープサンーチェジュド) シンガポール タイ 上海 三峡下り(重慶~宣昌~武漢) ハワイ アメリカ:西海岸(ロス シスコ)招待旅行と(地元の皆さんとで)あちらこちら、一年間に平均2度ばかり、、、、。極めつけはチャンスに便乗し「欧州各地の研修旅行参加」&ネバダ州「ラスベガス」でありました。遊ぶために働いていた?時代でもあります。無茶苦茶であります。

< 次回は、結婚のこと 家内とのこと 親父さんの生き様など,コメントしましょう。> ご期待ください!