日別アーカイブ: 2019年1月3日

“ 歴声庵 ”ブログ より 「大島口幕長戦争」紹介! 

大島口幕長戦争
~高杉晋作伝説の影に隠れた、世良修蔵の大島解放作戦~

幕長戦争に至るまでの経緯についてはこちらを参照下さい

幕府軍と長州藩、それぞれの大島口の認識

幕府軍の大島口方面軍の戦略と陣容

幕長戦争で幕府軍は作戦計画の際、山陽道から侵攻する「芸州口」、山陰道から侵攻する「石州口」、関門海峡より侵攻する「小倉口」、瀬戸内海から侵攻する「大島口」、そして海路萩を直接突こうと言う「萩口」の五方面から攻める計画を立てていた。しかし、萩口の担当にするつもりだった薩摩藩より、出兵拒否をされたため、実際には萩口を除く四方面から、幕府軍は長州藩に攻め込んだ。この中で大島口勢は四国の諸藩兵により構成されており、海路大島を侵攻占領し、この大島を橋頭堡にして長州藩領本土の徳山に攻め込む計画だった。この計画は、大島占領後に山陽道を侵攻する事になるので、大島口勢は、山陽道を管轄する芸州口勢の指導下ないし、協力関係にあったのではないかと推測する。

四国の諸藩兵により構成された大島口勢だったものの、雄藩の土佐藩は前藩主山内容堂が、出兵をしなかったため、慶応二年(1866年)四月に幕府から発令された大島方面軍の陣容は以下のとおりだった。第一陣先鋒:松山藩(松平家15万石:親藩)、第一陣応援:宇和島藩(伊達家7万石:外様)、第二陣先鋒:徳島藩(蜂須賀家25万石:外様)、第二陣応援:今治藩(松平家3万石:親藩)の顔ぶれで、目付として若年寄の丹後峰山藩主京極高富が派遣された。
しかし、陣容が発令されて兵を動員したのは松山藩のみで、残りの三藩は幕府からの指令に応じようとしなかった。この三藩が幕府からの指令に傍観を決め込んだ理由としては、幕長戦争に至るまでの経緯で書いたように、財政難と幕府への不信感が大きかったと思われる。また、真意は不明なものの、徳島藩が「何故国持大名の蜂須賀家が1万3千石の京極の指示を仰がなくてはいけないのか」と不快感を示したとの逸話も残っている。
宇和島・徳島・今治の三藩が出兵を躊躇してるのを見て、松山藩内にも自重論を唱える者も少なくなかった。だが、親藩なのに今までこれといった功績を挙げてないので、今こそ功績を挙げる機会との声が多かったのと、十数年前に松山城天守閣の再建の許可を頂いた恩に報いようとの声を挙がり、例え松山藩のみでも出兵する事に決定した。こうして慶応二年五月二十九日から続々と進発し、藩内瀬戸内海の興居島に集結し、大島侵攻に備えていた。
単独出兵に踏み切った松山藩兵だが、幕府としても流石に一藩だけでは戦力にはならないと判断したのか、本来芸州口担当だった幕府歩兵隊2個大隊を主力とした幕府直属軍を大島口へ派遣する事に決定した。この本来芸州口の担当だった部隊が派遣された事からも、大島口方面軍が芸州口方面軍と協力関係だったのではないかと推測する。

かくして出兵した松山藩兵だったが、その編成と装備は彼等が戦う長州藩兵と比べると余りにも時代遅れなものだった。まず出兵した松山藩兵の編成は譜代家臣衆を主力として、この譜代衆を二分して一の手を家老菅良弼が率い、二の手を同じく家老長沼吉兵衛が率いた。続いて旗本隊、部屋付属衆隊と出兵したが、これらの部隊は何れも兜・甲冑・陣羽織を纏った刀槍部隊で、これら陣羽織を纏った士族に中間の者や足軽が付き従うと言う、戦国時代と変わらぬ異なる身分が混在する旧式軍制の軍勢だった。
旧式軍制の松山藩兵の中で唯一西洋軍制だったのが、新制大隊だった。この新制大隊は松山藩兵が徴兵した農兵隊の一つで、全兵雷管式ゲベール銃を装備した、旧式軍制の松山藩兵の中で唯一の西洋軍制の部隊だった。松山藩も他の多くの諸藩と同様、文久年間から農兵を徴用して西洋軍事訓練を行っていたが、長州藩の大村益次郎のような軍事に通じた指導者が居ない松山藩は、形式的な農兵の訓練を行なったのが限界だったと思われる。このような形式的な西洋軍制では、長州藩兵の様に小隊編成による散兵戦術などはだった。だが、風雨に影響されずに射撃が可能な雷管式ゲベール銃を装備してる新制大隊は、刀槍部隊が大半を占める松山藩兵の中では精鋭部隊だったのは間違いない。この新制大隊は2個大隊512名が出兵し、凡そ1500名が出兵したと言われる松山藩兵の約三分の一を占めていた。

こうして新制大隊を除けば旧式軍制の松山藩兵に、援軍として派遣されたのが幕府歩兵隊2個大隊を主力とした幕府軍だった。当時の幕府歩兵隊は、後の軍制改革後の幕府歩兵隊と比べると見劣りするものの、全兵ミニエー銃を装備し小隊運動が可能だった事からも、松山藩兵と比べると格段上の軍勢だった。この幕府歩兵隊2個大隊の他にも、小筒組(旗本による小銃隊)3個小隊と一個砲兵隊が松山藩兵援軍の為に派遣された。

大村益次郎の大島放棄論

一方、長州藩の防衛計画を立案する大村益次郎の方針は、大島の放棄だった。数少ない兵力で幕府軍に対しての防衛作戦を立案しなくてはいけない大村としては、正直大島まで回す戦力はなく、また大島を占領されてもさほどの損害はないと大島放棄を決意する。ただ幕府軍が計画してた大島占領後の長州本土への侵攻に備えて、熊毛郡に第二奇兵隊始め、後に大島解放作戦に参加する戦力を配置した。これは大島を占領後に、幕府軍が長州本土に侵攻してきたらこの兵力で迎撃し、もし幕府軍が大島に来なかった際は芸州口へ援軍に送り、幕府軍が大島に来るとしても来ないとしても対処出来るように大村は戦力を配置したと思わる。
このように、大村は計画時点では大島を放棄する腹づもりだったが、兵力を全く配置しなくては大島の領民の不満が高まるので、大島在住の兵力で大島防衛に当たる事を命じた。まず代官斉藤市朗兵衛・軍監石川幹之助指揮下の大島農兵銃隊4個小隊を久賀村・安下庄村・日前村等の集落の防衛に当たらせ、村上河内・村上亀之助・村上太左衛門・平岡兵部・飯田弥七郎等の大島内に領地を持つ諸領主の手勢がこれを補佐する形となった。
これら諸領主の兵力は村上亀之助勢が槍隊が2個小隊と半小隊、小銃隊が3個小隊と伝えられる。また、村上河内の手勢もこれと同規模と伝えられる。そして平岡勢は、1個小隊の規模と伝えられる。なお、村上太左衛門勢と飯田勢の兵力は不明だが、兵力数は少なかったと思われる。

これらの大島守備兵の装備は、大島兵まではミニエー銃の配布は間に合わず、ゲベール銃ないし火縄銃を装備していたと思われる。また大島兵は刀槍部隊が多く、大村益次郎の軍制改革の進んだ長州藩正規軍と比べると装備の劣る旧式部隊だった。
このように長州藩正規軍と比べると見劣りする大島兵が守る大島に、幕府軍の大島口勢は攻撃を開始する事になる。


幕府軍の大島来襲と大島占領
略図
(記事を読む前に別ウインドで開いて、記事を読む際にご活用下さい)

幕府軍大島に来襲

このように幕府軍と長州藩兵が大島に対する備えを行なう中、遂に慶応二年(1866年)六月七日、幕府軍による大島への攻撃侵攻が開始された。この日の早朝、芸州藩領宮島を出港した幕府海軍の軍艦富士山丸は、海岸線沿いに西進し、長州藩領上関村沖へ現れて艦砲射撃を開始した。この砲撃後、富士山丸は進路を東に取り、海岸線沿いに東進し阿月村へ艦砲射撃を行なった。やがて大畠村に至ると今度は大島を南岸沿いに西進し、大島南岸で最大の集落の安下庄村へ、その12門の砲で猛烈な砲撃を行なった。その後、更に西進し大島西端の油宇村にも砲撃を行なった後で、松山藩兵が集結する興居島へ向かい、この日は同地に停泊した。この日の富士山丸の砲撃は、大島の守備の度合いを偵察するのが目的だったらしい。大島の反応により大島の守りは弱いと判断した富士山丸艦長井出春房は興居島に到着後、芸州藩領に置かれた幕府軍本営に、大島の守備は弱いので大島への上陸作戦を行なうように具申し、翌日大島方面軍による本格的な侵攻が開始される事になる。

翌八日、興居島に集結していた松山藩兵は、幕府海軍軍艦富士山丸と同大江丸に引率された同藩船団に乗り込み大島目指して出港した。こうして再び大島西端の油宇村沖へ到着した富士山丸は、上陸支援の為の艦砲射撃を開始し、砲撃の後に松山藩兵の一部が上陸した。富士山丸と大江丸の砲撃を受けた油宇村の領民は逃げまどい、中には至近弾を受けて死亡する領民も居た。こうした領民が逃げ去った後、上陸した松山藩兵は油宇村及び周辺の集落に放火した後に、油宇村沖に待機する松山藩船団に乗り込み、艦隊は再び航行を開始し安下庄村へ向かった。なお、この日行なわれた富士山丸の砲撃跡が、現在も油宇村浄西寺の石垣に残っている。
その後富士山丸・大江丸及び、この二隻に率いられた松山藩の船団は安下庄村沖に現れ、安下庄村へ砲撃を行なった。この砲撃を受けて、安下庄村の領民も家財道具を持って山に逃げ込んだ。領民が逃げまどう中、富士山丸と大江丸は砲撃を行なった。船団は安下庄村の民家を焼き尽くしたのを見届けた後、松山藩領津和地島目指して引き返し、同島に到着すると松山藩兵を下船させ宿陣した。

津和地島に停泊後、松山藩兵は休息するが、富士山丸は再び出港し、大島北部沿岸で芸州藩宮島から出港してきた幕府海軍軍艦翔鶴丸・八雲丸・旭丸(この船のみ帆船)と合流した。四隻は同日夕方、今度は大島北部最大の集落の久賀村沖に現れ、久賀村に対して猛烈な艦砲射撃を行なった。この久賀村でも、艦砲射撃を受けた領民は家財道具を抱えて久賀村南部の山地に逃げ込んだ。。砲撃を一通り終えると、四隻は進路を北に取り、大島北部の前島に停泊した。同地で幕府陸軍を下船させ宿陣させ、翌日に予定されてる上陸作戦に備えた。

      

左・中:浄西寺石垣に今も残る幕府海軍軍艦の砲撃による弾痕(中央の画像は左の画像の拡大)
右:浄西寺から油宇村方面を見下ろして

幕府軍の久賀村攻撃と占領

幕府軍と松山藩兵の意図に反して、翌九日と翌々日の十日は天候が悪い為に出港が出来ず、両軍ともそれぞれの宿陣地で待機した。天候が回復した十一日早朝、前島に宿陣していた幕府陸軍を乗船させた翔鶴丸と八雲丸を先頭にした艦隊が、大島占領を目指して前島を出港した。再び久賀村沖に現れた幕府艦隊は、久賀村に対し艦砲射撃を行なった。この翔鶴丸と八雲丸の砲撃に対し、大島防衛の指揮を取る斉藤は、自身の指揮下の農兵と、村上太左衛門と飯田の手勢で久賀村の守備についていた。また、沿岸には大砲と木砲を配置し、幕府軍の来襲に備えていた。しかし、この時配置した大砲は、小口径の旧式砲と木砲に過ぎず、砲撃を行なう翔鶴丸と八雲丸まで砲撃は届かなかった。逆に翔鶴丸と八雲丸の砲撃を受け、久賀村沿岸に配置された大砲・木砲は次々と破壊された。大島兵の火砲を排除した幕府艦隊は海岸に近づき、幕府歩兵2個大隊が続々と上陸を開始した。これに対し大島兵も抗戦するものの、装備も劣り未だ訓練が不十分な大島兵では、全兵ミニエー銃を装備する幕府歩兵隊に対抗出来る訳は無く、幕府歩兵隊の射撃を受けると鎧袖一触で敗走した。こうして大島兵の抵抗とは呼べない抵抗を排除した幕府歩兵は、大島最大の集落である久賀村の占領に成功した。

久賀村の占領に成功した幕府歩兵だったが、この後幕府軍司令部にも長州藩にも予想出来なかった暴挙を起こす事になる。元々、幕府歩兵は農民を徴兵して訓練していたが、農兵だけでは予定数が集まらなかったので、後には博徒や無宿人にも入隊を許可したので、幕府歩兵隊は精強なものの素行の悪い軍勢になっていた。この素行の悪い幕府歩兵の欠点が、久賀村占領後に噴出する事になった。
久賀村占領後も、興奮が止まない幕府歩兵は焼け残った民家に押し入り略奪を開始し、更には略奪後放火を行なった。幕府歩兵の暴走はこれに留まらず、領民が飼っている鶏や農事用の牛までを捕らえて食べ始めたのだ。久賀村の領民の多くは久賀村南部の山中に避難していたので命は無事だったが、家を焼かれ財産や食料を略奪され、更には飼っている鶏や農事用の牛まで食われてしまったら今後の生活の予定の立てようもないので、絶望に陥った領民の心には、幕府軍に対する憎しみが芽生え始めていた。

   

左:久賀町から見た前島遠景、この島に宿陣していた幕府軍は久賀村に侵攻を開始します。
右:現在の久賀村、海岸線沿いギリギリまで迫った山岳地帯の僅かな麓に集落が築かれています。

松山藩兵の安下庄村攻撃と占領

一方の松山藩兵も、同日津和地島から船団に乗船し、先日同様富士山丸と大江丸に先導され、同日昼前に安下庄村沖に到着した。当時安下庄村の防衛には、村上亀之助が当たっており、安下庄村南西の甲山に、砲台を築いて備えていた。これに対して、富士山丸と大江丸は砲撃を行ないつつ海岸沿いに南下し、甲山南西の浜辺に松山藩兵が上陸する。松山藩兵は上陸後、安下庄村に進軍を開始して、安下庄村を守る村上亀之助の手勢と激突した。幕府歩兵隊に比べると軍制の旧式な松山藩兵だが、大島兵も同じようなものであり、旧式軍制とは言えども正規の軍勢なので、未だ訓練が不十分で統制の取れていない村上亀之助の手勢をあっけなく撃破して敗走させた。なお、戦闘前は「逃げる者は斬る」と息巻いていた村上亀之助は、いざ戦闘が始まると手勢を残して一目散に逃げ出したと記録されている。
村上亀之助勢の抵抗を排除した松山藩兵は、安下庄村を占領し、同村快念寺を本営と定めた。ところが、松山藩兵もまた幕府歩兵同様に民家に押し入り略奪し、略奪後は民家を放火した。こうして暴虐を行なう松山藩兵だったが、初めての実戦にのぼせ上ったのか、暴虐は幕府歩兵隊のそれより悪化し、逃げ送れた婦女子に暴行し、男衆は惨殺するという暴虐を極めたものになる。博徒や無宿人が多い幕府歩兵でさえ領民の虐殺は行わなかったのに、士族が大半を占める松山藩兵が何故虐殺を行なったのかの理由は判らない。
もっともこの虐殺は少数で、大規模なものだったとは無かった模様で、逆に生活に困窮する農家に松山藩兵が兵糧米を供給するという美談も大島には残っている。だが、いかんせん美談よりも悪評の方が広がりやすい為、松山藩兵の暴虐は大島だけではなく、近隣諸藩にまで広まる事になった。

かくして幕府軍が久賀村を占領し、松山藩兵が安下庄村を占領する事態となった。この事態を受けた代官の斉藤以下大島兵の指揮官達は、屋代村に後退し今後を協議した。結局大島兵だけでは支える事は出来ないと判断し、この日の内に斉藤以下の大島兵は対岸の遠崎村に逃走た。
翌十二日、幕府歩兵隊と松山藩兵は島内を探索するが、大島兵が既に撤退したと知ると、久賀村と安下庄村を南北に繋ぐ清水峠上に建つ普門寺を両軍の連絡拠点に定め、日替わりでこの普門寺を守る事とした。大島占領を果たした幕府軍と松山藩兵だが、大島兵が居なくなったと知ると両軍ともこの日も略奪暴行を行ない、大島の住民達には益々占領軍に対する憎しみが湧き上がっていった。こうして幕府軍司令部の意思とは無関係に行なわれた両軍の略奪暴行が、後の大島解放戦に思わぬ影響を与える事になるのだった・・・。

      

左:源明峠から見た安下庄村、中央の小山が長州藩兵が布陣した甲山。また右下の山の奥が松山藩兵が上陸した三ツ松浜になります。
中:松山藩兵が安下庄村占領後本陣とした快念寺。
右:現在の安下庄の海岸部。


長州藩政府の大島への援軍派遣決定と、高杉晋作の奇襲作戦

長州藩政府大島への援軍派遣を決定

話は遡り、六月七日と八日の両日に行なわれた、幕府海軍による大島への砲撃を見た大島久賀村在住の僧大洲鉄然は、幕府軍が大島占領を狙っていると判断した。また、この砲撃により多数の民家が焼かれ領民が犠牲になっている事を知らせる為に、自らが山口の政事堂に向かった。大洲の知らせを聞いた山口の政事堂は、「大島の惨状を見逃せば、長州藩本土の領民の支持を失う」と判断し、大村の大島放棄論を撤回して、十日夜に熊毛郡に駐屯する第二奇兵隊と浩武隊に大島への援軍を命じた(結果的には大島解放軍となる)。山口の政事堂は、当時三田尻港から小倉口の指揮に向かおうとしていた、丙寅丸に乗船する高杉晋作にも大島への援軍を命じた。
大島への出兵の命を受けた、第二奇兵隊の軍監を勤める林友幸は、本隊に先行して若干の斥候を引き連れ大島対岸の集落の遠崎村に十一日未明には到着し、妙円寺を大島解放作戦の本陣に定めた(後述するが、奇しくもこの妙円寺は世良修蔵が、師の月性から教えを受けていた寺だった)。林が遠崎村に到着した十一日の夜が明けると、大島のあちこちから黒煙が上がり始めた。また、林が斥候を放ち情報を収集する間にも、大島より守備兵が次々と引き揚げて来たのを見て林も大島陥落を知り、方針を転換して大島奪回の作戦を練る事になる。

翌十ニ日、高杉の乗船する丙寅丸が遠崎村に到着し、林から大島陥落の報を聞くと早速林と大島奪回の軍議を行なった。この時点では、第二奇兵隊始め、大島解放戦に参加する部隊が遠崎村に集結しておらず、林は翌十三日に大島に進軍したいと高杉に言いますが、高杉は今晩(十二日夜)丙寅丸単独で奇襲をかけたいので、十三日の作戦は延期してほしいと林に要請した。林もこれを了承したので、偽装の為に遠崎に集結してる部隊を一旦柳井村に後退させると高杉に約束する。
余談ながら、林から大島進軍の一日延期と柳井への後退を聞いた斉藤等の大島衆は、林に対して「大島への進軍が一日遅れれば、住民の苦しみが一日増える」と食って掛かるが、「ならば代官のお前等が何故住民を見捨てて逃げ出してきた」と一喝されるとすごすごと退散したと伝えられる。

      

左:久賀町内に建つ大洲鉄然誕生の地の石碑
中:大島上陸まで林が本陣とした妙円寺
右:妙円寺近くに建つ大島兵の慰霊碑

高杉晋作の奇襲作戦

十三日未明、高杉が乗船する丙寅丸が大島目指して遠崎を出港した。余談ながらこの丙寅丸には、砲術長として山田顕義が、機関長として田中光顕が乗り込んでいたが、両人ともそれぞれの専門知識も無しにそれぞれの長になっていて、そして無事丙寅丸が作戦を遂行出来た事に、良くも悪くもこの時代の無謀ぶりを感じる。
閑話休題、出港した丙寅丸は、大島の海岸線沿いに久賀沖に向かった。この日の夜久賀村沖には、大島攻略作戦に参加した翔鶴丸・八雲丸・大江丸・旭丸の四隻の軍艦(富士山丸は不在)が、蒸気機関の火も落とし錨も下ろして久賀村沖に停泊して休んでいた。
大島を占領した幕府艦隊としては、敵襲の心配もなく休んでいたのだが、その久賀村沖に突如丙寅丸が奇襲をしかけてきた。海外沿いに久賀村沖に向かっていた丙寅丸上の高杉は、四隻の幕府軍艦を確認すると全速力で突撃を命令する。丙寅丸は富士山丸の2/3にしかない小さな軍艦だったが、その小ささを活かして幕府海軍の間を航行し、手当たり次第に周りの幕府軍艦に砲撃を行なった。よもや敵襲など考えていなかった幕府軍艦は慌てて機関に火を入れますが、当時のボイラー機関は高温になるまで時間が掛かったので、ようやく幕府軍艦が航行可能になった頃には既に丙寅丸は引き揚げた後だった。この丙寅丸の攻撃は物理的損害としては皆無だったが、どうやら幕府艦隊はこの奇襲を仕掛けてきた軍艦を薩摩海軍によるものだと判断したらしく、幕府艦隊は存在しない薩摩藩海軍の影に怯える事になる。

かくして快男児高杉晋作による丙寅丸の奇襲は成功した、一般的な本やドラマでは、この丙寅丸の奇襲により大島口の戦いは終わったように描かれているが、本当の大島口の戦いはこれからが始まりで、世良修蔵による大島解放作戦が行なわれる事になる。


世良修蔵について

 大島口幕長戦争大島口の戦いで長州藩兵を率いた世良修蔵は、天保六年(1835年)七月四日に、大島の椋野村の豪農中司家の三男として生まれた。この頃の志ある若者同様に、世良は長じるにつれて学問に励み、十八歳になると萩の明倫館に入校する。明倫館は長州藩藩士の子弟の教育の為に設立された藩校だったが、幕末になると士分でなくても優秀な者だったら入校を許されていたので、十八歳の世良もまた大島を出てこの萩の明倫館で勉学で励む事になる。
明倫館で学んだ後、世良は大島対岸の遠崎村妙円寺に住む、海防僧として有名な月性(西郷隆盛と入水自殺した月照とは別人)に、十九歳の時に弟子入りをした。月性の元で世良は、志士として必要な思想と教養を教え込まれるのだが、月性の元で学んだ二年間は、後に世良が志士として活動する際に貴重な財産となった。
こうして明倫館と月性の元で学んだ後、世良は更に学識を深める為に江戸に留学し、高名な三計塾に入塾しここで二十四歳までの二年間を学ぶ事になる。この三計塾は品川弥二郎陸奥宗光と言った後の明治の重鎮も学んだ有名な塾だが、世良はこの塾で同期の谷千城と寝食を共しながら勉学に励み、遂には塾頭になる程の学識を得た。
三計塾で学んだ後の世良は多くの志士や学者と議論を交わす一方で、西洋軍事(英国式)の勉学にも励み西洋軍事の知識を習得した。余談ながら、後世の活躍を見ると陸軍に通じていた感がある世良だが、本人の専門は海軍だったらしく、実際後に海軍に関しての著書を書くことになる。
江戸で遊学しながら軍事の研究に励む一方で、藩から命じられて儒教学者の加藤有隣を長州藩に招く使者に抜擢されるなど、次第に世良は長州藩の中で頭角を現し始めていた。

      

左:世良の師である月性が読んだ文が刻まれた妙円寺の「男児立志の碑」。
中:同じく妙円寺内に建つ月性の記念碑。
右:妙円寺内に復元された清狂草堂、若き日の世良や赤根武人はここで月性に学んだ。

こうして長州藩士として、また志士としての活動に奔走していた世良は二十八歳の時、故郷である周防の阿月領主の浦家に仕官した。この頃の世良は既に益田家の家臣になり、「大野修蔵」を名乗っていたのだが、当時の浦家当主浦靱負が才能のある若者は身分に拘らずに登用するのを好む開明的な人物だった為、地元の出身で志士として名を挙げ始めた世良を招いて、浦家の中で家格の高い木谷家を継がし、以降は「木谷修蔵」と名乗る事になる(当サイトでは以降も世良修蔵と記述する)。
浦家の家臣となった世良は、赤根武人と共に浦靱負が開設した私塾克己堂の兵学等の講師となり、阿月の若者達の教育に励んだ。長州藩の私塾と言えば吉田松蔭の松下村塾が有名だが、この克己堂も松下村塾に負けず劣らず明治の世で活躍する優秀な人材を生み出す事になる。また奇兵隊の主要幹部を松下村塾出身者が占めたように、後に世良が率いる第二奇兵隊の要職も克己堂出身者が占める事になる。

こうして克己堂で阿月の若者の教育に励んでいた世良だが、馬関攘夷戦争の敗戦を受けて発足された奇兵隊に先に入隊していた赤根に誘われ、世良もまたこの奇兵隊に入隊する事となり、その学識を買われて奇兵隊の書記に就任した。奇兵隊に入隊した世良は、発足間もない奇兵隊の組織固めに従事する。しかし禁門の変の際、主家の浦家も出兵する事となった為、浦家家臣の世良は奇兵隊を離れ阿月に戻り、浦家の遠征軍の編成と克己堂の講師の職務に励んだ。その後の実際の禁門の変では、浦靱負の養子滋之助率いる軍勢に参加していた世良だが、浦家の軍勢は禁門の変では実戦には参加せずに長州に退却した。
禁門の変の敗北と、その後の第一次長州征伐の脅威を受けて長州藩内ではそれまでの過激派政権から保守政権に政権交代が行なわれた。禁門の変後、再び克己堂の講師の任に専念していた世良が保守政権をどう思っていたのかは記録が残っていないが、保守派政権がかつて世良の主君だった益田右衛門介を切腹させた以上、世良が保守派政権を支持していたとは思えない。

こうした情勢を受けて高杉晋作が元治元年(1864年)十二月に保守派政権打倒のクーデターを起こし、大田・絵堂の勝利で保守派政権の打倒の目処がつくと、世良は高杉から周防の保守派勢力打倒の指示を受ける。これを受けた世良は同志の白井小助芥川義天国行雛次郎等と共に、阿月の同志を中核とした軍勢を率いて、保守派の代官所等を恭順させる事になるのだが、この時率いた軍勢が後の第二奇兵隊の母体となる。
慶応元年(1865年)三月、保守派政権を打倒して、幕府に対して武備恭順体勢で望む新政権が再発足する。この新政権が成立する前の二月に、世良と白井は来るべき幕府軍の戦争に備えて、周防南部を守るのを目的にした第二奇兵隊(南奇兵隊)を結成させた。第二奇兵隊はその任務を周防南部の防衛としていた為、主要な幹部をかつて世良が克己堂で教えた浦家の家臣が占める事になり、世良自身は軍監の地位に就く。また、世良の故郷の大島からも有志の若者達が多数入隊した。
その後の藩内の政情の動向から、第二奇兵隊の人事は数度変更されるが、学識があり隊士の人望が厚い世良の軍監としての地位が揺るぐ事はなかった。

しかし翌慶応二年(1866年)二月、世良は赤根事件の連座を受けて失脚する事になる。第一次長州征伐の際に、赤根は長州藩が幕府に恭順する事により、長州藩の存続させようという活動をしていた。結果的に高杉のクーデターが成功したが、常識的に考えれば赤根の考えの方が理にかなっていた。そして、この自分の行動に農民出身の赤根が反した行動を取った事に高杉と山県有朋は深い憎しみを持ち、遂に過激派政権設立後のどさくさに紛れて高杉と山県は赤根を私怨により処刑した。そして、処刑前の赤根を庇ったという嫌疑を受けて世良は失脚する事となった。なお、世良の失脚後に、世良の後任の軍監として林友幸が萩から派遣されるのだが、この林は萩出身ながらも松下村塾党ではなかった為、克己堂党の色が強い第二奇兵隊とも馴染んだ模様で、後の大島口の戦いでは世良と共に第二奇兵隊を率いて幕府軍と戦う事になる。

失脚する事となった世良だが、同年四月に有名な第二奇兵隊の倉敷暴発が起きると、第二奇兵隊の幹部達は長州藩政府に「隊内の混乱を静めるには世良の復職が必要」と嘆願した為、来るべき幕府との戦いに第二奇兵隊の力を必要としていた長州藩政府は世良の謹慎を解く事にした。この復職の際、主君の浦靱負は汚名をそそぐために世良(当時は木谷姓を名乗っていた)に、浦家中きっての名家の世良姓を継ぐように命じた。これを受けて遂に歴史上に世良修蔵の名前が現れる事になる。
そして世良が世良修蔵の名を名乗って二ヵ月後、幕長戦争大島口の戦いが行なわれる事になった。世良姓を継いで初の大仕事の責任感を持ち、戦場となった大島で生まれ育ち大島の島々を知り尽くし、第二奇兵隊随一の軍略家の世良が、この大島口の戦いの中心人物になったのは言わば当然の事だろう。

      

左:世良や赤根が講師として後進の育成に当たった克己堂跡
中:阿月滞在時の世良の屋敷跡の石碑
右:同じく赤根の阿月滞在時の屋敷跡の石碑

   

左:第二奇兵隊で書記を務めた芥川義天誕生の地の石碑、このように第二奇兵隊の幹部の大半は阿月出身者が占めていた。
右:阿月の海岸から見た大島を見て、世良もこのように阿月の地から故郷を眺めていたのだろうか。


世良修蔵の大島解放作戦
略図
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長州藩兵の大島解放作戦開始

高杉晋作の依頼を受けて柳井に後退していた第二奇兵隊を始めとした諸隊は、慶応二年(1866年)六月十四日の夜が明けると再び遠崎に進軍した。諸隊が進軍を行なう中、遠崎村北方の琴石山に放っていた斥候から岩国方面に濛々と黒煙が上がっていると報告が世良の元に入る。これを聞いた世良は「芸州口の方でも戦いが始まった、大島の幕府軍はあの黒煙に気を取られているだろうから、この機を逃さず一気に大島に渡海する」と兵士達に伝達し、夕暮れに紛れて遠崎村と大島の間に浮かぶ笠佐島に渡海させた。幕府軍に対しての奇襲を狙った世良は、この笠佐島への渡海に対しては順序などばらばらで、60余隻の船団をとにかく逸早く大島からは死角で見えない、笠佐島の西部に上陸させた。全軍が笠佐島への上陸を終わると、笠佐島への上陸時とは一転、大島への上陸に対しては順番と部署を細かく定め、全軍を三つに分け以下の編成で、十五日未明から夜陰に紛れて全軍を大島へ向け一斉に渡海させた。後の陸上軍の指揮ぶりと比べるとあまり目立たないが、この上陸船団の手配と実地を一人で行なった世良の手腕は、海軍に通じていると実感する。上陸後、長州藩兵は以下の編成で、それぞれ進軍した。

屋代口(大島中央部):第二奇兵隊5個小隊・浩武隊1個小隊・清水兵(第二奇兵隊総督清水美作の手勢)1個小隊・大島農兵1個小隊、以上8個小隊
沖浦口(大島南岸廻り):上関兵2個小隊・大野兵(大野領主毛利伊賀守の手勢)1個小隊・三丘勢(三丘領主宍戸家の手勢)1個小隊・大島農兵3個小隊、以上7個小隊
三蒲椋野口(大島北岸廻り):浦家兵(世良の主家である阿月領主浦家の手勢)1個小隊・三村上及び飯田と平岡配下の大島勢、以上凡そ12個小隊

      

左:遠崎の海岸から見た笠佐島
中:同じく遠崎から見た笠佐島東岸と長州藩兵が上陸した大島小松港(笠佐島の奥)
右:源明山山頂から見た笠佐島と琴石山(中央奥の山が琴石山)

この編成は一見すると、北岸廻りの三蒲椋野口への兵数が多いように見える。だが、三蒲椋野口に向かった軍勢は浦家三番小隊を除けば、残りはいずれもかつて幕府歩兵隊と松山藩兵に追われて大島を逃げ出した大島兵なので、兵数程の戦力ではなかった。実際この大島解放作戦に参加した長州藩兵の内、大村益次郎の軍制改革が行なわれていたのは第二奇兵隊と浩武隊、そして世良が鍛えた浦家三番小隊くらいのもので、その他の各領主の手勢はまだ軍制改革がまだ済んでいなく、大島兵に至っては前述の通りだ。
大島への上陸を果たした長州藩兵は、笠佐島対岸の小松開作村で領民の説得に来ていた松山藩士二名を捕らえ、一人を斬った後に、屋代口勢は屋代村に進軍し、同村西蓮寺を長州藩兵の本営に定めた。
長州藩兵の大島来援を知ると、幕府軍と松山藩兵の略奪に怨嗟の声を上げていた大島の領民はこれを歓迎した。世良が西蓮寺に入ったのを知ると続々と領民が集まり、長州藩兵への協力を申し出る。領民から協力の申し出をを受けた世良は、食事の炊き出しや弾薬・兵糧の運搬等の後方勤務への協力を依頼した。また、実際に戦闘が始まると、地理に明るい領民が斥候の役目も果たしてくれるようになる。このように領民からの協力を得た世良は雑務から解放され、作戦立案に専念する事が可能になり、後の長州藩兵の戦いに非常な恩恵をもたらす事になる。
こうしてこの後の長州藩兵は世良が作戦立案を担当し、林が実戦部隊の指揮を取るという世良と林の二人三脚体制で戦う事になる。

西蓮寺に滞陣する世良は諸隊に兵糧を取らせて休憩させる間、領民から得た情報により攻め手を決定し、十五日朝から諸隊に以下の攻め手の元で行軍を開始させた。
まず屋代口勢は普門寺を目標として大島の中央を縦断し進軍する。屋代口勢が大島を南北に分断するのを受けて、三蒲椋野口勢は大島北岸を進み、久賀村を目指し、沖浦口勢は大島南岸へ、それぞれ進軍した。なお、沖浦口勢は屋代口勢、三蒲椋野口勢とは違い明確な目標が定められてはいなく、この方面に敵軍がいたら駆逐する程度の任務だったと思われる。

   

世良が大島解放戦時に本陣にした屋代村西蓮寺に建つ「四境の役大島口本陣の碑」。尚、西蓮寺の本堂その物は後年火災により焼失したので、世良が本陣とした当時の建物は残っていない。


六月十五日の戦い
略図
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普門寺の戦い

 六月十五日朝に屋代を出発した屋代口勢は、神領村で二手に分かれ、第二奇兵隊・清水兵・大島農兵は源明峠を越えて南方から普門寺を襲撃し、浩武隊は垢水峠を越えて北方から普門寺を攻撃する、共に普門寺を目標とした作戦だった。これは住民から普門寺が幕府軍と松山藩兵の連絡拠点になっていると知らされた世良が、両軍の連絡遮断を目的にして計画された作戦だったと思われる。
神領村で、浩武隊と別れて源明峠を進む林友幸率いる第二奇兵隊は、帯石観音普門寺に到着した。予想に反して、普門寺は一兵も居らず、不信に思った林が普門寺の住職に尋ねると、この日守備担当だった松山藩兵は、気温の暑さに参って松山藩兵の宿陣地である安下庄に水浴びに行って不在だった。後述するが、先日の高杉晋作の奇襲と芸州口開戦を受けて警戒態勢をとっていた幕府軍と比べると、松山藩兵のこの緊張の無さは、先日の安下庄村での略奪と加えて松山藩兵の軍紀の乱れを物語っているだろう。
松山藩兵の不在により普門寺を無血占領した林は、第二奇兵隊を境内に潜ませて敵兵の襲来に備えた。やがて久賀村方面より敵兵が現れ、普門寺に潜んでいた第二奇兵隊は林の命令下銃撃によりこの敵兵を撃退するが、これは普門寺に定時連絡の為に訪れた幕府歩兵2個小隊だった。
この後も暫く普門寺に駐在していた第二奇兵隊等の諸隊だったが、夕暮れになると全軍が屋代村に後退した。また浩武隊が普門寺に到着した時には、既に第二奇兵隊が後退した後だったので、浩武隊もまた屋代村に後退した。なお、長州藩兵の後退後の深夜に幕府軍が普門寺に来襲し、長州藩兵が後退したのを知ると普門寺に火を放ち後退した。

久賀村方面の戦い

大島に上陸後久賀村方面に向かった浦家三番小隊(隊長茶川雅輔)と三村上及び飯田平岡勢は三手に分かれ、浦家三番小隊と村上河内勢は文珠山を越えて垢水峠に入り、久賀村南部の畑村を目指した。また、村上亀之助勢は碇峠から平原峠を越え久賀村を目指した。そして村上太左衛門・飯田・平岡の手勢は、海岸線沿いの街道を通って久賀村を目指した。
一方、幕府軍は先日の高杉の奇襲と芸州口の開戦を受け、近々長州藩兵の攻撃があると危機感を持っていた。幕府艦隊は一旦久賀村沖から撤収し、幕府歩兵隊は、久賀村南部の丸山から久賀村南西部のラインに簡易陣地を設けて長州藩兵の来襲に備えていた。
こうして平原峠の麓に築かれた陣地に篭る幕府軍と、村上亀之助勢の間で戦端が開かれた。幕府軍は簡易陣地の影から猛射撃を行ない、また臼砲での砲撃を行なった為、村上亀之助勢は敗走こそ間逃れたものの非常な苦戦に陥りった。一方、垢水峠を進む浦家三番小隊と村上河内勢は畑村に到着したものの敵兵を見なかったのと、平原峠の方から銃砲声が聞こえてきたのを受けて平原峠に転進した。
一方の幕府軍も、平原峠で戦いが始まったのを知ると、周辺の軍勢を援軍に向かわせるが、この援軍に向かう幕府歩兵を、海岸沿いに連なる天神山を進む、村上太左衛門・飯田・平岡の手勢が見つけると、山中から攻撃を開始した。更にこの方面でも、長州藩兵の進軍を知った領民が多数駆けつけ、周囲の山々に登り大声を挙げたり石を投げつけたりしたので、幕府軍に多数に包囲されたような錯覚を起こす事になる。これも先日の幕府軍が行なった略奪に怒った領民が敵にまわったせいだが、ここ久賀村方面でも、上層部の意思とは関係ない現場の暴走が、前線の兵士達を危機に追い込んだ。
劣勢の幕府歩兵だったが、平原峠の村上亀之助勢を撃退すれば、海岸線沿いを進む長州藩兵を孤立させる事が出来ると判断する。丸山守備の部隊を迂回させて、村上亀之助勢の側面を突かせるが、その幕府歩兵の側面に浦家三番小隊が襲い掛かった。隊長の茶川の命令で攻めかかった浦家三番小隊は、27名の兵士全てミニエー銃を装備し散兵戦術を行なえる有力な部隊だったので、数に勝る幕府歩兵を撃退して、村上亀之助勢は壊滅の危機から間逃れた。
この後は、両軍とも決定打に欠ける膠着状態に陥り、やがて夕暮れとなると両軍とも後退し、長州藩兵は屋代村に引揚げた。また、沖浦口勢は大島南岸沿いに進軍したが、この日は敵兵と接触しなかった為に、秋村から笛吹峠を抜けて屋代村に後退した。
この日の戦いは終わると、三手に分かれた長州藩兵は屋代村に帰還しこの地で宿陣した。この日の戦いで驚かされるのは、先日幕府軍・松山藩兵の攻撃を受けて敗走した三村上と飯田平岡の手勢の粘りぶりだ。強兵の浦家三番小隊と大島住民の援護があったとは言えども、先日なす術も無く敗走させられた、幕府歩兵と互角に渡り合えたのは本当に驚きだ。

   

左:源明山山頂から見た文殊山
右:畑村から見た久賀町


六月十六日の戦い
略図
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長州藩兵と松山藩兵それぞれの戦略

十五日の戦いを終えた各方面の長州藩兵は、十五日夜それぞれの戦線から屋代村に後退してきており、各隊の幹部は長州藩兵本陣の西蓮寺に集まり、世良の指導の翌日の作戦の軍議を行なた。この軍議上で「久賀村の幕府歩兵さえ撃退すれば、戦意の低い松山藩兵は自然と撤退するだろう」との結論に至り、翌十六日に久賀村の幕府軍への攻撃を行なう事に決っした。
十六日朝、屋代村を出発した長州藩兵は、以下の編成で久賀村へ進軍した。主攻撃の第二奇兵隊・浩武隊・浦家三番小隊・大野兵・三丘兵・上関兵は垢水峠を越えて、畑村を経由して久賀村に向かった。助攻撃の三村上及び飯田平岡の手勢は、碇峠と平原峠を越えて、久賀村へ向かった。また、松山藩兵に対する押さえとして、源明峠に清水兵を配置し、笛吹峠に大島農兵を配置した。
久賀村へ向けて出発した長州藩兵だったが、本隊が垢水峠に入った辺りで安下庄の農民が駆けつけ、「松山藩兵が清水峠・源明峠・笛吹峠の三方に向け進軍を開始した」と知らされる。これを受けた世良率いる本隊は緊急の軍議を行ない、碇峠・平原峠を進む三村上及び飯田平岡勢を幕府歩兵に対する押さえとして、主攻撃の本隊を反転させ松山藩兵攻撃に向かわせる事にした。こうして第二奇兵隊と大野兵、そして源明峠に布陣していた清水兵は清水峠に向かい、浩武隊・第二奇兵隊1個小隊・浦家三番小隊・上関兵は源明峠に向かった。なお、笛吹峠は遠方の為に援軍は派遣しなかった。

話は遡り十五日、長州藩兵の反撃を受けた幕府歩兵と松山藩兵は、長州藩兵が屋代村に後退した夜間に連絡を取り合い、翌十六日に長州藩兵を南北から挟撃する事に決した。こうして十六日朝、松山藩兵は安下庄村を出発し、源明峠には管率いる一の手勢が向かった。また清水峠には、長沼率いる二の手勢が向かった。そして源明峠には、吉田惣右衛門率いる新制大隊が向かった。
長州藩兵の攻撃に向かった松山藩兵だが、その行動は大島領民の報告により長州藩兵に知られる事になったのは、上記の通りだ。これも松山藩兵が安下庄村で行なった暴挙に怒った領民が、進んで長州藩兵に協力した結果だ。もし、松山藩兵が安下庄村占領後に善政を行なっていれば、ここまで領民の恨みを買う事はなかったので、ここでも上層部の意思を無視した現場の暴走が、戦況を悪化させる事になった。

源明峠の戦い

長州藩兵と松山藩兵が、それぞれの目標に向かい進軍する中、遂に源明峠・清水峠・笛吹峠の各地で両軍は激突した。まず源明峠では、松山藩家老の菅が率いる一の手勢が進軍したが、新制大隊を除く松山藩兵は戦国以来の甲州流の軍制だったので、この源明峠を進む一の手勢はほら貝を吹き鳴らし多数の旗指物を翻して進軍していた。源明山の山頂に布陣する浩武隊等からはその姿は丸見えとなり、浩武隊等は山頂から臼砲による一斉砲撃及び射撃を行なった。これに驚いた松山藩一の手勢は反撃に転じようと試みるが、この時浩武隊等が布陣する源明山の山頂には雨雲が掛かっていた為、麓の松山藩兵からは山頂の浩武隊等の姿は見えず、一方の浩武隊等からは旗指物を翻す松山藩兵の姿は丸見えだったので、山頂からの砲撃と射撃を受け源明峠を進む松山藩兵一の手勢は総崩れになって安下庄村へ敗走した。

      

左:現在の源明山山頂
中:源明山山頂に建つ「四境の役大島口戦跡碑」
右:現在の源明峠

清水峠の戦い

一方、清水峠でも、山頂の普門寺付近に布陣する第二奇兵隊等と、清水峠を北進する松山藩家老長沼率いる二の手勢が激突した。この清水峠でもほら貝を吹き鳴らし旗指物を翻し進軍する松山藩兵だたが、山頂に布陣する第二奇兵隊等の長州藩兵は砲撃と猛射撃を松山藩兵に行なった。これに対して、松山藩兵も反撃に転じようとするが、清水峠ではこの時大雨が降り始めた。火縄が濡れると射撃出来なくなる火縄銃を装備する松山藩兵は、火縄を濡らさないように右往左往する間に、長州藩兵の猛射撃を受けて早くも崩れ始めた。これを好機と見た第二奇兵隊三番小隊長(槍隊)の国行雛次郎は、三番小隊を率いて峠を駆け下り松山藩兵に斬り込んだ。国行率いる三番小隊の奮戦は凄まじく、山頂からの猛射撃を受け崩れかけていた松山藩兵は、この国行達の突撃を受けると、遂に支えきれなくなり清水峠から敗走した。国行等の奮戦により松山藩兵を敗走させたが、真っ先に松山藩兵に斬り込んだ国行自身は乱戦の中で戦死してしまう。

この清水峠の戦いで戦死した国行雛次郎は、阿月領主の浦家家臣に生まれ、克己堂にて世良から教育を受けた世良の腹心と言って良い存在だった。世良と共に結成直後の奇兵隊に入隊し、また高杉のクーデター時には世良と白井と共に周防南部の鎮撫に当たり、第二奇兵隊結成時には槍隊隊長になるなど、常に世良と共に幕末を奔走していた同志だったが、この清水峠の戦いで散華する事になった。

国行の奮戦で清水峠の松山藩兵は総崩れになったが、そのような中で僅かな手勢を率いて長州藩兵の前に立ち塞がったのが、松山藩監察の佐久間大学だった。この佐久間は織田信長の宿老だった佐久間盛信の子孫と言われ、大半の松山藩兵が敗走する中、黒皮縅の鎧に身を包み手槍を持ち従者を引き連れて長州藩兵の前に立ちはだかった。この古武士には流石の第二奇兵隊も突き崩せずにいたが、やがて峠道を迂回した大野兵が側面から佐久間等を突き崩したので、鬼神の如き奮戦をした佐久間も遂に乱戦の中で討ち死にした。この佐久間の戦死により、清水峠上の松山藩兵は完全に駆逐され、第二奇兵隊等の諸隊は安下庄村を目指して清水峠を南下した。

   

左:八田山八田八幡宮内に設けられた「四境の役・戊辰の役戦死者の墓地」
右:上記墓地内に建つ国行雛次郎の墓

笛吹峠の戦い

笛吹峠ではm松山藩唯一の西洋軍制部隊である新制大隊と大島農兵が激突した。小雨の降る中開始されたこの戦いは、当初は新制大隊優勢だった。全兵雷管式ゲベール銃を装備する新制大隊は、他の松山藩兵が雨により火縄銃を使えず苦戦したのに対し、小雨をものともせず射撃を行ない、一時は大島農兵を撃破寸前まで追い込んだ。しかし、周囲の領民が続々集まり山頂から大声を挙げたり石を投げ込み始めると、次第に新制大隊の勢いもなくなり、源明峠を進む友軍(一の手勢)が敗れたと知ると退路を遮断されるのを恐れて、一気に瓦解して敗走した。この敗走を新制大隊隊長の吉田は叱咤激励して静めようとするものの、幾ら全兵雷管指揮ゲベール銃を装備すると言っても、元は無理やり農民を徴発して編成された部隊の為、一度動揺が広がると脆かった。結局、古田もこの敗走を止める事が出来ず、この笛吹峠でも松山藩兵は敗走した。

安下庄村解放戦

こうして清水峠・源明峠・笛吹問峠で悉く敗北した松山藩兵は、久賀村の幕府軍の元に援軍を求める使者を送った。元々この日は久賀村から幕府歩兵が南下し、安下庄村から松山藩兵が北上し長州軍を挟撃する計画だったが、松山藩兵が進軍したのに対して、幕府歩兵が動く事はなかった。これは先日行なわれた、高杉晋作の丙寅丸によって行なわれた奇襲を薩摩藩海軍によるものと思い込んでしまい、存在しない薩摩藩海軍の来襲を恐れたからだ。久賀村を離れたら薩藩摩海軍の攻撃を受けて、薩摩藩海軍と長州藩兵に挟撃されると考えて、一旦松山藩兵と合同作戦の約束をしたものの、実地の段階になると薩摩藩海軍を恐れて久賀村から離れる事が出来なかったのだ。
この為、清水峠・源明峠・笛吹峠で敗れた松山藩からの援軍要請をされても幕府歩兵は動く事が出来ず、松山藩兵は単独で安下庄村を守る事になった。

一方、長州藩兵は清水峠と源明峠から安下庄村目指して進軍した。両峠を進軍する長州藩兵は、やがて山頂に到着すると、駆けつけた領民と共に、眼下の安下庄村に向かい鬨の声を投げ掛け松山藩兵を威嚇した。一方、松山藩兵は、各峠で敗戦したとは言えども、まだ旗本隊や部屋付属衆隊等の無傷の部隊を温存していたので、本営である快念寺を中心に山頂の長州藩兵に対し布陣していた。だが、他の四国諸藩の協力も得れない上に、幕府歩兵の援軍も得られない事態に陥った事により、それ以上の抗戦を諦めて、夕暮れに紛れて安下庄沖に停泊する同藩船団に乗り込んだ。
それでも、自ら大島口方面軍の先陣に名乗り挙げた意地からか、松山藩兵は船団に乗り込んだものの撤退はせずに、暫くは海上から山頂に布陣する長州藩兵と睨み合っていた。しかし、そのような意地も時が立つと薄れるのか、深夜になると遂に大島への再侵攻を諦め、一旦大島南部の小島沖家室島に後退した。同地でしばらく休憩した後に、松山藩領津和地島まで後退し、松山藩兵が大島に現れる事は二度となかった。
一方、松山藩の船団が撤退した後も、山頂に布陣する長州藩兵は警戒して動かず、長州藩兵が安下庄村に進駐したのは夜が明けた十七日朝の事だった。この時安下庄村には逃げ送れた松山藩兵が若干潜伏していたが、進駐した長州藩兵はこれらの松山藩兵を捕らえて士分は斬り捨て、農民は路銀を与えて解放した。こうして安下庄村を解放した長州藩兵は、同村で食事と休憩を行い、体力を回復させた後に、昼過ぎから残る敵である久賀村の幕府軍撃破を目指して北上した。

安下庄村から源明山方面を見て。


六月十七日の戦い
略図
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 長州藩兵が安下庄村を守る松山藩兵を敗走させた十六日の深夜、幕府歩兵奉行の河野伊代守は陸軍奉行竹中重固を訪ねる為に、芸州口方面軍の本営に向かった。この河野の行為が戦況の悪化を受けて上官の指示を仰ぎに行ったのか、はたまた戦況の悪化を受け恐怖に駆られて部下を見捨てて逃走したのかは判らないが、確実なのはこの日の戦いで幕府歩兵隊は最高指揮官不在で戦う事になってしまった。余談ながら、この大島口方面軍の目付の京極高富はこの時まだ松山藩在住で、結局一度も大島に足を踏み入れる事はなかった。

翌十七日、安下庄村を解放した長州藩兵は、久賀村の幕府歩兵を撃破する為、昼過ぎから清水峠を北上した。清水峠を進む長州藩兵が山頂を越えると、世良は軍勢を二手に分けて、第二奇兵隊・上関兵は、津原川(宮崎川)西岸の久保河内を進み久賀村へ進軍させた。また、浩武隊・大野兵は、津原川(宮崎川)東岸にそびえ立つ八幡山山中を抜けて海岸に出て、海岸線沿いから久賀村村へ進軍させた。
前日以来垢水峠に布陣していた長州藩兵も、この日大島に到着した第二奇兵隊総督の清水美作が率いる援軍を迎えて、久賀村目指し進軍を開始した。浦家二番小隊(隊長秋良岩輔)を援軍に迎えた浦家三番小隊・村上太左衛門勢・飯田勢・平岡勢は丸山方面に進み、村上河内亀之助勢は畑村を抜けて久福寺方面に進軍した。このように、長州藩兵は四方面から久賀村に進軍したが、幕府歩兵は最高指揮官不在ながらも、久賀村に至る道筋に陣地を構築し長州藩兵の攻撃に備えた。

やがて、長州藩兵による久賀村攻撃が始まったが、これまでの勢いを駆る長州藩兵が各地で幕府軍を圧倒し、次第に幕府軍は本営を設けた久賀村中心部に後退した。長州藩兵もこれを追って久賀村へ突入したので、久賀村中心部に後退した幕府歩兵を、長州藩兵が海岸部の北部を除いた東部・西部・南部の三方から包囲する形で戦闘が行なわれた。
久賀村中心部の戦闘では、それまで各戦線で長州藩兵に分断され苦戦していた幕府歩兵も、戦線を縮小した事により戦力が集中出来たので、これまで長州藩兵に圧倒された幕府歩兵も果敢に反撃した。しかし、長州藩兵の方も幕府軍を三方から包囲する事により、久賀村中心部に篭る幕府軍を二重の十字射撃が可能になり、幕府軍の反撃にも負けない猛攻を行なった。このように久賀村中心部を巡る戦いは凄まじく、特に久賀村東部の津原川河口付近と久賀村西部の追原付近で激戦が行なわれたと伝えられる。
久賀村を巡る激戦は、次第に長州藩兵有利に戦況が進むが、久賀村に篭る幕府歩兵の不利を知ると、それまで存在しない薩摩藩海軍を警戒して久賀村海岸沖から離れていた翔鶴丸・八雲丸・大江丸・旭丸の四週が再び久賀村海岸沖に現れて長州藩兵に砲撃を開始した。それまで三方からの包囲で幕府軍に対して優勢だった長州藩兵だが、この幕府海軍軍艦からの艦砲射撃を受けると火力の違いからそれ以上攻め寄せる事が出来なくなった。もっとも幕府軍の方も、この頃になると長州藩兵の猛攻だけではなく、大島の領民が山頂から行なう投石や鬨の声などを受けて萎縮してしまい、折角の幕府海軍軍艦からの援護射撃を受けても、長州藩兵の包囲を突破する事は出来なかった。

かくして両軍とも決定打を欠き戦闘は膠着状態に陥りるが、日が沈む頃になると幕府海軍軍艦による艦砲射撃が視界不良により不可能になり、この好機を活かそうと長州藩兵は猛攻に転じた。一方、幕府歩兵も軍艦による援護射撃が無くなれば戦線が保てなくなると判断し、海岸沖の軍艦から撤退の合図が出ると全軍船に乗り込み、海岸沖の軍艦目指し撤退した。幕府歩兵の撤退を知った長州藩兵だったが、日暮れの中での追撃は危険と判断したのか、追撃は行なわず一旦久賀村南方の山岳地帯に後退し、この日はこの地で宿陣した。

      

左:久賀の海岸と八幡山
中:現久賀村内に設けられた明治百年記念公園
右:明治百年記念公園に建つ追原古戦場の碑


大島口の戦闘終了と戦後処理

 十七日の久賀村の戦いの後、幕府歩兵は久賀村沖に停泊する幕府艦隊に収容されたしたが、翌十八日になっても幕府艦隊は久賀村沖から去る事無く久賀村沖に停泊したままだった。ただ先日撤退した松山藩兵もしばらく安下庄村沖に停泊した後に撤退したので、幕府歩兵も同じだと判断したのか、長州藩兵は十八日に僅かな見張りを残して全軍を屋代村に後退させてしまう。
ところが長州藩兵の予想に反し、翌十九日、幕府軍は再び久賀村に上陸を開始し、焼け残った家々から食料を略奪し農耕用の牛等を殺して食べ始めた。この幕府歩兵の再上陸の報告を聞いた屋代村宿陣の長州藩兵は、慌てて久賀村に急行するが、長州藩兵が久賀村に到着した頃には既に幕府軍は引き揚げ、艦隊ごと芸州藩領に撤退した後だった。
この屋代への後退が世良の指揮だったのなら、世良は最後の最後で判断ミスを犯したと言える。しかし、この久賀村での略奪を最後に幕府歩兵が大島に現れる事は無く、大島は幕府軍に占領されて八日にして解放された。最後に多小の判断ミスがあったとはいえ、この大島解放作戦は世良が居なくてはここまで短期間で勝利する事は出来なかっただろう。そして、この大島解放作戦の功績により、世良の長州藩に置ける地位は確固たるものになった。

大島から幕府軍を撃退した世良と林が率いる長州藩兵は、戦闘終了後に林が山口の政事堂に戦果を報告する為に大島から離れ、世良は大島に残り戦後処理を担当する事になる。まず捕虜とした幕府歩兵の中で士分の者と、幕府歩兵、及び松山藩兵に協力した大島の領民を斬刑に処し、各村々の復旧作業を指示した。
やがて幕府軍の再侵攻が無いと判断した世良は、後任の大島守備の指揮官として浩武隊隊長の小笠原弥右衛門を任命し、三村上及び飯田平岡の手勢、大島農兵をその指揮下に入れて防備に当らせた。世良自身は第二奇兵隊と共に大島を去り、これにより世良の大島口解放戦は終りを迎えた。なお、大島攻防戦当初に大島を放棄して逃走した代官斉藤と軍監石川はその行為を糾弾され、戦後謹慎処分に処された。
余談だが、この大島口の戦いの際の幕府軍、及び松山藩兵の略奪は近隣諸藩に知れ渡る事となり、近隣諸藩から非難を受ける事になる。これに対し松山藩は当初こそ情況を楽観視していたが、大島の領民より報復を示唆する書状が届くと慌てて謝罪の意思を伝え、十一月に正式に大島に謝罪の使者を送った。この謝罪の使者の応対には林が当り、世良はこの使者達を会う事はなかったが、あるいは大島出身である世良が、大島で略奪した松山藩の使者と会う事を潔しとしなかったからなのかもしれない。

こうして大島解放戦は長州藩兵の勝利に終わった、そしてこの大島口の戦いが終了した十九日に先立ち、十四日には芸州口が、十七日には石州口と小倉口でも戦闘が開始されていたのだが、各戦線を戦う長州藩兵の将兵にとって大島口の勝利は勇気を奮い立たされる情報であり、戦意が高揚される報告だったろう。そして石州口の戦いは長州藩兵の勝利に終り、芸州口でも征長軍の主力部隊相手に互角に戦い(余談ながら大島から撤退した幕府歩兵隊2個大隊はその後この芸州口の主力部隊となる)停戦に至った。ただし、小倉藩との戦闘は、小倉藩兵の決死の抗戦により、翌慶応三年一月まで続く事になる。
やがて同年九月、幕府と長州藩は休戦となるのだが、卑しくも日本政府である徳川幕府が長州藩という一地方政権に戦争で勝利する事が出来なかった事は徳川幕府の威信を大きく傷つける事になた。この幕長戦争の敗戦により徳川幕府は一気に瓦解に向かい、幕長戦争が終り僅か一年余にして264年の歴史に幕を閉じた。そのような意味では、幕長戦争は徳川幕府の終りの始まりになった戦いと言えると思うが、その幕長戦争で真っ先に勝利を収めた大島口の指揮を取った世良の明治維新における功績は、決して小さいものではなかっただろう。

   

左:幕長戦争大島口の戦いで世良と共に長州藩兵を率いた、東京都青山霊園に建つ林友幸の墓。
右:東京都安蓮社に建てられた、幕長戦争での幕府軍戦死者の墓。


世良修蔵のその後

海軍局から京都の政治工作担当へ

大島口幕長戦争の終了後、大島を去った翌慶応三年(1867年)一月に、第二奇兵隊の軍務から離れて山口の海軍局に勤める事になります。この海軍局時代の世良は、その海軍に対する知識を活かして長州藩海軍の整備に当る一方で、英語の勉学に励むなど忙しくも充実した日々を過ごした。なお、世良が海軍に関する書見を執筆したのもこの海軍局時代だ。
こ海軍局でその知識を活かして職務に励んでいた世良だが、五月になると海軍局を離れて品川弥二郎と共に、長州藩の復権を目指した政治工作を行なう為に京都に潜入し、薩摩藩の京屋敷に住み込んで政治工作に当る事になる。この頃の長州藩の要職は松下村塾党に独占されていたが、その情況の中で松下村塾党の品川と共に京都工作を任されたのは、当時の長州藩内の世良の地位の上昇を物語っている。また、この共に政治工作に奔走したのが縁で、世良と品川の間に交友が生まれる事になり、薩摩藩京屋敷に住み込んだのが縁で、世良は西郷隆盛を始めとした薩摩藩の実力者と知己となる機会を得た。
こうした情況の中で政局は激しく動き、同年十月に薩長両藩に倒幕の密勅が降れば、将軍職を継いでいた徳川(一橋)慶喜は十月十四日に大政奉還を行ない薩長の武力討伐の大義名分を奪うなど虚々実々の駆け引きが行なわれる事になり、長州藩の政治工作の最前線には世良と品川が奮闘していた。やがて十二月九日、王政復古の大号令が発布されるが、その中には長州藩の復権も含まれており、翌十日に復権の為に一門の毛利内匠が参内する際には、その傍らにはそれまで京都工作に奔走した世良と品川が付き添っていた。

鳥羽伏見の戦い

王政復古の大号令と長州藩の復権は実現したが、その後徳川慶喜は優れた政治手腕を発揮して、この不利な情況から政治的に挽回し、年末には新政府に慶喜を迎えさせるという譲歩を朝廷から引き出す事に成功した。
この情況に危機感を覚えた西郷隆盛や大久保利通は、政治戦では慶喜には勝てないと判断し、江戸で破壊工作による挑発を行い旧幕府を激昂させ、軍事衝突に持ち込む事により起死回生の謀略を行なった。これに対し慶喜は軍事力を用いなくとも自分の勝利は間違いないのだから、部下が挑発に乗らないように諭すが、慶喜の深謀遠慮を理解出来ない会津藩兵や桑名藩兵はこの薩長の挑発にまんまと乗ってしまい、遂に慶喜の静止も聞かず京都に向かい進軍した。
こうして激昂し進軍を開始した旧幕府軍と薩長連合軍は翌慶応四年(1868年)一月三日に鳥羽伏見の地で激突するが、この鳥羽伏見の戦いについての詳細は鳥羽伏見の戦いの記事を参照して頂きたい。この鳥羽伏見の戦いでも世良は第六中隊(第二奇兵隊)を率いて活躍し、特に一月六日の男山の戦いでは別働隊を率いた世良の功績は大きかったと伝えられる。

奥羽鎮撫総督府参謀への就任

西国鎮撫も終わると、新政府はいよいよ東征を決意し、東海道・東山道・北陸道の三方から江戸を目指す一方で、奥羽諸藩を恭順させ新政府に敵対する会津藩の討伐を目的とした奥羽鎮撫総督府の派遣も決定する。この奥羽鎮撫総督府の参謀には当初薩摩藩の黒田清隆と長州藩の品川弥二郎が任命されていたが、出発直前の三月に組織変更が行なわれ、黒田と品川に代わり薩摩の大山格之助と世良が参謀に任命された。厳密に言うと世良と大山は「下参謀」なのだが、これは同じ参謀に公家の醍醐忠敬が就任していたので、公家と藩士が同じ地位に就くのは憚れるという事で世良と大山は「下参謀」となったが、職務は醍醐と互角、というより奥羽鎮撫総督府の実権は世良が握っていた。

出発前に組織変更で混乱があった奥羽鎮撫総督府だが、三月十日に軍艦に乗り込み三月十八日には仙台藩領寒風沢に到着した。この後の世良は多くの傍若無人な行為を行なったと言われているが、大半が史料的な根拠の無い「小説家」による想像に過ぎない事を明言させて頂く。しかし、世良が奥羽諸藩に強硬な態度を取ったのは史実らしく、これに対して近代史研究家の原口清氏は著書である「戊辰戦争」の中で以下の様に述べている。
 「これ(世良修蔵の態度)は東北諸藩贔屓の戊辰戦争史家がしばしば言うような、「無理解」や「非道」「傲頑」といったものではなく、維新政府の取っていた基本方針の確認である。(中略)彼(世良)は総督が嘆願書を受け取った以上、その回答は出さなければならないが、その場合も名義を失わないよう「朝敵不可入天地ノ罪人ニ付、不被為及御沙汰、早々討入可奏成功」とう断固たる回答を与え、彼等が不満として反論する場合は、適当にごまかしてその場を切り抜け総督は早く白河城に転陣すること、世良自身は「奥羽皆敵ト見テ逆襲ノ大策」をたてるため、急遽江戸の大総督府の西郷参謀と相談し、更に大阪にもゆき、「大挙奥羽ヘ皇威ノ赫然到候様」にしたい。「(会津を)此歎願通ニテ被相免候時ハ、奥羽ハニ三年ノ内ニハ朝廷ノ為ニアラヌ様可相成、何共仙米俗論朝廷ヲ軽スルノ心低、片時モ難図奴に御座候。右大挙ニ相成候時ハ、払底ノ軍艦ニテモ酒田沖ヘ一ニ艘廻シ、人数モ相増、前後挟撃ノ手段ニ到候他到方無」と。ここには奥羽列藩と真っ向から対立する態度がしめされている。
以上、少々長い引用になったが、原口氏は本書の中で諸藩から新政府に出仕した藩士達が、戊辰戦争が進む中で絶対主義官僚化した(これには当然世良も含まれる)と説明している。個別領有権を否定する絶対主義権力による政権を成立させる為には、個別領有権を認める封建諸侯の全てを屈服させなくてはならず、最大の封建諸侯である徳川氏を屈服させた以上、残る敵対勢力は会津藩だった。新政府に対する全面恭順を拒む会津藩と妥協する事は、封建主義を存続させる事になり、絶対主義権力により国内を統一するという使命感を持つ世良としては、会津藩・仙台藩を代表する封建主義勢力と妥協は出来なかったと説明している。
これは革新派の絶対主義官僚である世良と、保守派の封建主義権力である奥羽諸藩との対立で、個別領有権と身分差別により成り立つ封建主義を守ろうとする奥羽諸藩としては、封建主義を否定しようとする世良を許す事は出来なかったのだろう。世良が非妥協的な態度を取るのに対して、一方の会津藩もまた謝罪はするが処分(藩主の厳罰、領土の削減等)を受け入れないと言う強硬姿勢を取っていた以上、奥羽鎮撫総督の方から譲歩する訳にはいかなかった。東北及び会津贔屓の人からは、世良の非妥協的な姿勢を非難する声は多いが、会津藩の強硬姿勢を指摘する声が皆無なのは理解し難い。

だが、一方で世良にも非難されるべき点があったのも間違いない。この奥羽鎮撫総督府時代の世良は、「軍事参謀」としての職務には忠実だったが、「政治参謀」の職務は疎かにしていたと言わざるを得ない。世良の軍事指揮官としての手腕は今まで書いてきた通りだし、総督以下の公家は無能無才で同僚の大山も軍事的才能は無いので、世良が奥羽鎮撫総督府の軍事を一手に握るのは言わば当然だったと思う。そして軍事参謀として世良は、上記で引用した通り庄内藩へ海路別働隊を派遣すべきという案や、会津藩への攻め口の選定や白河城への戦力集中の建言など、その職務を十分に果たしていた。
しかし、この時世良に求められていたのは「政治参謀」としての手腕で、残念ながらこの時の世良には「政治参謀」としての職務は不十分だったと指摘せざるを得ない。極論すれば奥羽諸藩を欺いたり、嘘の譲歩を提言するなどの政治的謀略が要求されていたのに、絶対主義権力官僚としての使命感から世良はあまりにも「生真面目」に自分の職務である会津藩征討に忠実だったと言わざるを得ない。
実際、世良自身も奥羽諸藩に非妥協的な立場を取り続ければ、我が身に危険が及ぶのを覚悟していたらしく、閏四月十日には阿月の友人に「一筋におもいこんだる国のため、我が身はたとへみやぎの名にうもれて死すとも、こころはよしや名取川」との歌を送っている。このように自分の身に危険が及ぶ危険性を感じていたものの、世良は自分の命よりも絶対主義権力による国内統一という使命感を重視して、封建主義を守ろうとする奥羽諸藩に対して非妥協的な態度を取り続けたのだ。

世良修蔵の死

仙台藩や他の奥羽諸藩の兵を用いての会津討伐は不可能と判断した世良は、上記で引用した通り奥羽鎮撫総督府を奥州の玄関口の白河城に後退させ、ここで新政府東山道軍の援軍を待ち、奥羽諸藩の兵では無く、新政府軍の兵力を以って会津藩と庄内藩を討伐する作戦を立案し、それを相談する為の手紙を閏四月十九日に秋田方面に向かった大山に送った。この手紙自体は戦況を理解した適切な内容だったと思うものの、重要な手紙を他藩である福島藩士に任せたのは軽率な判断だったと言わざるを得ない。

結局この手紙は福島藩から仙台藩に渡ってしまい、本文中に「奥羽諸藩はもはや皆敵だ」と書かれているのを見ると仙台藩士は激昂錯乱し、身分差別による封建主義権力を守る為に、世良の殺害を決意した。仙台藩家老の但木土佐から世良殺害の許可を得ていた瀬上主膳姉歯武之進率いる二十余名は、翌二十日未明、福島城城下町の金沢屋の二階で就寝していた世良を急襲した。この急襲に対し世良も抵抗するが、庭に脱出しようと二階から飛び降りた際に着地に失敗し、庭の置石に頭部を強打し意識不明の重傷に陥ってしまう。瀬上等も世良の捕縛を実行はしたが、その場で殺害はせず形式的な裁判を行い処刑するつもりだった。しかし、世良の出血を見て助からないと判断すると、急遽意識不明の世良を阿武隈川河原に引き連れて、世良の意識が回復しないままこの地で世良を処刑した。こうして国内を絶対主義権力により統一するという使命感を持っていた世良修蔵は、故郷大島から遥か離れた奥羽の地で三十四歳の生涯を終えた。

なお、世良が処刑される際に命乞いをしたという逸話があるが、世良は処刑される際も意識が回復してなかったのだから、そのような話は「小説家」の作り話と断言せざるを得ない。もっとも世良を貶すのと一方で、処刑される際に世良は堂々と時世の句を読んだと伝えられる事もあるが、これも処刑される際に世良の意識が無かった事を考えれば、世良を英雄視する為の作り話と言わざるを得ない。
また、斬首された世良の首は仙台藩士が持ち帰り白石の地で葬られるが、胴体の方は阿武隈川の河原に無造作に埋められて、後日大雨の際に流されて行方不明になったらしい。

      

左:世良が襲撃を受けた金沢屋跡地
中:世良暗殺実行犯の仙台藩士達が宿舎としていた客自軒跡地
右:世良が斬首された阿武隈川河原

      

左:福島稲荷神社境内に建つ世良修蔵霊神碑
中:世良の墓所が建つ白石市陣馬山
右:陣馬山山頂に建つ世良の墓所、左に建つのは世良と共に謀殺された勝見善太郎・松野儀助達の墓

こうして世良は殺害され、仙台藩は世良の殺害後に米沢藩と共に盟主となり奥羽越列藩同盟を成立させ、新政府との開戦に踏み切った。ところが、新政府を倒し新たな政府を成立させるという心意気は大きくとも、明確な政略も戦略も持たない、石井孝氏が「ルーズな封建諸侯連合に過ぎない」と評する奥羽越列藩同盟は、新政府軍の攻撃の前に各個撃破され、世良を殺害してまで新政府との開戦に踏み切った仙台藩は九月十二日に新政府軍に降伏する事になる。
なお、世良殺害の許可を出した但木と、世良捕縛責任者の一人の瀬上は新政府の命を受けた仙台藩によって斬刑に処され、同じく世良捕縛責任者の一人姉歯は第三次白河城攻防戦で戦死し、白河の地に屍を晒す事になった。

さて上記したように世良の墓所は白石の地に建てられたが、明治十五年(1882年)に世良の生まれ故郷である大島椋野村の久保山山頂に、世良の招魂碑が建てられた(なお、久保山には世良家代々の墓も建てられている)。
こうして幕末の世を奔走した世良は明治の世を見る事無くこの世を去る事になったが、明治が終り大正昭和、そして平成の世になった今でも世良の招魂碑は、故郷椋野そして大島の地を見守っているのだった・・・。

      

左:世良修蔵の故郷椋野村の久保山
中:久保山山頂に建てられた世良修蔵の招魂碑
右:久保山から見下ろした現在の椋野村、世良は今もこの生まれ故郷を見守っている・・・。


主な参考文献
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争~敗者の明治維新~」:佐々木克著、中公新書

「防長回天史 第5編中」:末松春彦著
「第二奇兵隊大島郡出陣日記」:山口県教育財団
「郷土物語18巻 大島郡戦記~四境戦争其の三」:防長史料出版社
「浦滋之助日記」:柳井市立図書館
「世良修蔵」:谷林博著、マツノ書店
「高杉晋作と奇兵隊」:東行庵

「久賀町史」:久賀町
「橘町史」:橘町
「東和町史」:東和町
「幕末維新の松山藩」:景浦勉編、えひめブックス
「朝敵伊予松山藩始末」:山崎善啓著、創風出版社
「松山市史 第2巻」:松山市
「長州戦争」:野口武彦著、中公新書
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書

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