日別アーカイブ: 2015年5月21日

仙崎港 ‘ 青海島観光汽船のりば’ 遊覧船で、おうみじま!

DSC03539

DSC03540

(ネットより)
面積14平方キロメートル、周囲は約40キロメートル。本土との間は青海大橋で連絡されている。島の最高点は北東側にある高山319.9メートル。いくつかの島が砂州でつながってひとつの島となっている。島の北岸は日本海の荒波を受けた浸食地形となっており、その奇岩の並び立つ様子は「海上アルプス」とも称される。対岸の仙崎港から観光遊覧船が発着しており、島の外周を一周することができる。島の南西には砂州の波の橋立に囲まれた潟湖の青海湖がある。

元々は本土の一部を含めて大津郡仙崎通村(せんざきかよいむら)という一つの村であったが、青海島東部が通村に、西部と本土部分が仙崎村に分かれた後、1954年(昭和29年)に周辺の町村と共に長門市の一部となった。北長門海岸国定公園を代表する景観の一つ。日本百景に選定されている。また国の名勝および天然記念物に指定されている。

通(かよい)地区はかつて沿岸捕鯨の基地として栄えた地域である。向岸寺には当時捕獲された鯨の胎児を埋葬するための「鯨墓」(1692年建立、国の史跡)があり、約70体の鯨の胎児が埋葬されているほか、毎年鯨回向が執り行われ、鯨の霊を弔っている。また、現在でも地域に伝わる伝統芸能として「通鯨唄」が歌い継がれている。当時の沿岸捕鯨の様子については、向岸寺そばの「くじら資料館」に詳しい展示がある。

大日比に県花の夏みかん原樹があり、200年以上実をつけているが、今は根だけが原樹で上は接木である。

サンデン交通が島と本土の長門市中心部および下関市を結ぶ路線バスを運行している。

DSC03541

DSC03542

DSC03543

DSC03544

★旧サイトへクリック移動「青海島」で検索されますと、筆者と「おうみじま」の関係が判定出来ます。

《独り言》数日前、(ミニバイクにて)ゴミ退治方々(筆者が走った処)実は「青海島観光遊覧船」乗り場まで来たのです。(大爆笑1)ゴミのほうは、(湯本から俵山までの国道=急な坂)の一部を除いて、おおむね綺麗でしたが、、、

・実は(地元)豊田町の台地区(石柱渓入り口)辺りから長門市渋木方面への走行は、(実は)初めてではなく、かなりの回数(バイクや車で)走行しているのです。特に、長門市渋木真木地区には驚きます(整理された地域性=奥まった地域にしては結構広い!)。

・歴史:史実的にも、(どこと無く)筆者を惹きつける?何かを感じるからですね!筆者の母親のそのまた母親の生まれ故郷が「おおみじま=青海島」の「かよい=通」ですし(通地区の墓所には、一年中「供花」を絶やさない風習?習慣!漁師町ならでは!)、長門市三隅町(旧大津郡三隅町)沢江(筆者の母親の実家=みやた酒商)には、「明倫小学校」がありますね(萩藩校の明倫館との影響~関係は、、、)。

・今、大河ドラマでの「花燃ゆ」での準主役「小田村伊之助」=楫取素彦(かとりもとひこ)三隅に住んでいた!=三隅下二条窪(大沢たかお:熱演)そして(その時代の)少し前(毛利藩=萩藩の財政改革を成し遂げた「村田清風」=三隅町沢江 さらにさらに、長門市渋木大峠での「周布家」の住居跡、その手前「豊田町今出大字台」石柱渓手前の「山崎家」=萩藩医(豊田行二=渡邉修造:作家)の奥様佳代子さん実家=Seinanの後輩)などなど、実に因縁的な関係があります。(千葉クリニック、千葉武彦院長のお父上への関係大、、)

・萩~長門~豊田は地理的にも近く、「長州藩士」の面々が「中野半左衛門」(豊田町の豪商、下関市豪商の「白石正一郎」との絡み、この豪商は(先ほどの)「村田清風」=萩藩重役 の息がかかっていた!そこの(中野家)大番頭を筆者のご先祖さんがやっていた!全てが「吉田松陰」の影響下(関連下)にあるのです。

(参考)地元「稗田晃雄」=教師出身(大福寺:住職)さんのお爺さんは、美祢市江原(よわら)から婿養子に来られています。「豊華義塾」を創設、その先生が「横田黙輔」=松下村塾(塾生)萩から隠居後、「尚義館」を創設、ドリーネ(落ち込み穴)の中の不思議な集落ですが、、、昔も今も人間の繋がりは(静かに)息づいているのですね!まあ、たかがゴミ退治、されどゴミ退治?(大爆笑2)